唯識思想 5.「唯(ただ)識のみ」と煩悩の世界
われわれは、外界に存在する物を見たり触ったりして知覚することによってその存在を認識すると考える。
しかし唯識思想では、存在すると認識するのは識(知覚)の中にある形象を見ているにすぎず、認識する自我も外界の存在物も実在しないという。
たとえば「見る」ということについていえば、「見る私(見分)」と「見られる対象(相分)」の両方が眼識という識の中に現れることである。つまり眼識自身が対象の映像を作り出し、眼識自身がそれを見るという構図なのである。そこには眼識という識だけがあるのであり、外界の存在物もそれを見る自己もない。「唯、識のみ」という唯識の語はここからきている。
人間を、さとりから妨げる煩悩の世界はどのようにしてつくられるのだろうか。
われわれが外界を認識するのは心であるが、心を構成するのは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識(以上五感)、意識(思考力)の六識、その他に自覚されないがマナ識(自我意識)とアーラヤ識(潜在意識)の計八つの識であるとされる。
アーラヤ識の中には、これまで生死輪廻してきた無限の過去世のすべての経験が潜在印象として貯えられている。それを種子という。アーラヤ識は瞬間ごとに種子が生起し消滅して(刹那滅)、現勢化した識の流れを形成する。
アーラヤ識の中には、実在しない自己(自我)を実在すると思い込む潜在意識も保持されている。それが現勢化したものがマナ識である。それによって常に自我の意識が働き、自我に執着する意識が働くのである。
六識は、外界に対する認識のように見えるが、アーラヤ識の中には自己自身の感覚器官(有根身)や過去に経験した外界(器世間)も保持されていて、その種子から生じたものが認識されるのである。
以上のように、人間には一つの心というものがあってそれが見たり聞いたりして認識するのではなく、心は、アーラヤ識の中の種子によって生起・消滅するマナ識、六識等多様な識の複合体の刹那滅の流れなのである。
そのことが、人に自我と物質を実在すると思わせ、執着させて、煩悩の世界を作り出すという。
(仏教学習ノート45)