唯識思想 6.識=心は「虚妄なる分別(ふんべつ)」
煩悩の世界は、心の根底にある潜在意識のアーラヤ識を根拠として現出する。すなわち唯識思想では、アーラヤ識の中にある種子に貯えられている無限の過去世の経験が、一つにはマナ識と呼ばれる自我意識を覚醒し、一方で眼識などの六識として現勢化して外界の物質を実在すると思わせるという。この心の働きをもう少し詳しく見てみよう。
われわれの常識的な感覚からいうと、事物たとえば机があるとすると、その机を認識する私と認識される机とを区別して考える。つまり主観である私(我)と客観である机が別々にあって、主観が客観を捉えると思う。
唯識思想は、それが間違いだという。そのような心の働きを分別といい、主観と客観を別々に捉えることは「虚妄なる分別」だという。それをもたらすのは、言葉が生み出す概念にすぎず、主観(我)も客観(机)も、心=識の中では一体となっているのである。それが、アーラヤ識によって自我意識や表象(形象)として顕在化したものにすぎず、実在するものではない。
すなわち、識=心は「虚妄なる分別」であって真実にあるのではない。それは、アーラヤ識に支配された、自我と物に執着する煩悩の世界でしかないのである。繰り返しになるが、そこには自我も物質も実在しないのである。
自我も物質も実在しないという。自我は実在しない、つまり無我であるということは分かるような気もするが、物質が実在しないということについては正直なところ感覚的についていけない。私のこの感覚に対して、世親は次のように解説している。
われわれは、夢を見ているとき夢の中のものを実在していると思っている。夢から覚めれば消え失せて実在でないことがわかるのだが、夢から覚めない限りわからないのである。
それと同じで凡夫は、現実の世界が虚であることに気がつくことはできないのである。そういう意味でこの現実の現象世界は夢、幻のごときものである。そして現実の世界から目覚めて、悟りの境地に入ってはじめて真実の世界が見えるという。
この世の一切の現象、つまりわれわれが存在すると考えるものは、夢、幻のようなものといわれるのは、空についても同じである。唯識思想でいう識のみの世界も夢、幻ということは、根底に空の思想を置いているからである。
(仏教学習ノート46)