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エッセイ・コラム

出光佐三氏に学ぶ生涯現役(その2)

安藤 英千代

 出光佐三氏の生涯詳細内容は小説に譲ることにして、佐三氏の年齢に沿って年表を整理してみます。

1945年(60歳)8月15日 太平洋戦争終結(8月16日 瞑想)
海外資産全てを失う。二百数十万円の借金。
8月17日訓示「①愚痴を止めよ、②今から建設にかかれ」
800人の引揚者:「一人も首は切らない」と宣言し全員収容

1946年(61歳)
ラジオ修理業(全国50店。後に石油販売拠点)
タンク底油回収作業

1949年(64歳)元売指名
⇒1951年日章丸就航(戦後初の自社運行船)

1953年(68歳)イラン石油輸入(日章丸事件)
⇒英国海上封鎖の中、イラン国有化石油を世界で初めて輸入

1957年(72歳)徳山製油所竣工
⇒1963 天皇皇后両陛下徳山視察

1963年(78歳)千葉製油所竣工(1月)
⇒新潟豪雪にもかかわらず、石油業法の生産調整による供給
不足に抗し石油連盟脱退

1967年(82歳)千葉製油所2期拡張
世界初の重油直接脱硫装置完成

1973年(88歳)北海道製油所竣工

1975年(90歳)愛知製油所竣工⇒国内最後の新設製油所

1981年(96歳)逝去

①出光佐三氏が経営の根幹とした“人間尊重、家族主義”の真髄は、終戦時「家族をクビにはできない」と800人の引揚者を一人も馘首せず、生活費と手紙を送り「仕事は必ず探す」と約束し実践した事ではないでしょうか。この時、丁度60歳です。

②そして意気消沈していた日本人が再び自信と誇りを取戻した「イラン石油輸入の日章丸事件」。会社にたった1隻しかなかった外航船を経済封鎖中のイランに差向け、「例え拿捕・撃沈されても日本人の心意気を全世界に示す」と決断・実行したのが68歳です。

③72歳で当時国内最大の徳山製油所を作り、6年後千葉製油所建設。しかし石油業法で生産枠を50%に制限され、冬の大雪時に消費者が困窮しているのを見かねて石油連盟を脱退。国や業界を相手に一歩も引かず「消費者本位」を貫いたのが78歳です!
96歳で逝去された時、昭和天皇は店主を偲び和歌を作られました。
  “国のため ひとよ貫き尽したる 君また去りぬ さびしと思う”
「共に戦前戦後の未曾有の国難を全身全霊で生抜き指導し、日本人の誇りを取戻し繁栄を築いてくれた戦友の死がさびしい」という昭和天皇の深い悲しみが溢れています。(歴代の天皇が一般人の死を悼んで和歌を詠まれる事は例がないそうです。)

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