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エッセイ・コラム

隠れキリシタンの里「外海(そとめ)」を訪ねて

大平 忠

 9月30日(土)、長崎遊覧バス会社の1日ツアーに参加して、隠れキリシタンの里を廻ってきた。幸い快晴に恵まれた。ガイドさん曰く「こんなに海が美しく五島列島までくっきり見える日は珍しい」とか。特に、遠藤周作文学館から眺めた海の景色はこの上もなく素晴らしかった。

 「外海」地区とは、長崎市中央部から西北へ進み西海市に至る一帯を指す。所番地は長崎市である。ところが、バスで長崎駅前から出発して小1時間もすると、海岸に平地がなく山と隣接している。道は明治以後できたもので、山の中を削った道である。これも登ったり降りたりすこぶる険しい。明治以前は、外海地区に行くには山に道は無く船で行くしかなかった。外海は今でも便利ではない。
 従って、1614年キリシタン禁教令が出る以前から、キリシタンたちは追及を逃れて長崎の中央部から外海地区の山間部へと移り住み、少人数ずつ目立たぬ集落を作って暮らした。山の見晴らしの良いところからは、海岸にやってくる船をすぐ見つけることができた。潜伏するには格好の場所だったであろう。

「枯松神社」
 バスが山の中で止まり、降りて山道を登っていく。登り口には小枝や細竹を切った杖が置いてあり必要な人はこれを使う。無論私も使った。急な坂で足元が危ない。たちまち息が切れた。階段状に一段毎石を二つ三つ並べてあるが、この石を運んで積み上げるのも難儀だったことだろう。登り終えると森の中に小さな社があった。祀ってあるのは、伝道士サン・ジュアン。生前は、ここが隠れ家で、信者が集まって祈りを捧げる場所だった。亡くなってから後、墓の上にカムフラージュのため社を作った。この時、天福寺の住職は、それと知りながら神社としての体裁を黙認して協力したという。明治になり、信徒たちが現れて天福寺に喜捨をした。昔助けてくれたお礼であると。この小さな山奥の神社には隠れた歴史が秘められている。

「ド・ロ神父」
 外海一帯の布教のためやってきた伝道士は何人かいるが、最も有名なのはマルコ・マリー・ド・ロ神父(略してド・ロ神父といわれている)である。明治元年(1868年)フランスから28才で来日し、外海地区には明治12年(1879年)に赴任してきた。ド・ロ神父は、この地区の貧しいことに驚き、生活向上のための施策に莫大な私財を投じて力を尽くした。施策は、農業(小麦、茶、紅茶)、織物業(フランスから20台の織機を輸入)、食品製造(パン、マカロニ、うどん、そうめん)と多岐に渡った。さらに女性に手に職をつけさせ勉強するための救助院まで作った(1階が作業場で、2階が宿舎兼教室兼教会。50人の女子が寝泊まりした)。ド・ロ神父は、幼い頃から父親の教育方針の下、建築、大工、農業、医療などすぐ役に立つ実技を身につけていた。外海では、それらが大いに役立った。しかも、渡日に際し、両親から莫大な財産(24万フラン、当時の日本円で約2億4千万円)を貰い受けたことにより、教会の建設、救助院の設立など全て神父が私財で賄ったというから、これは余人には真似ができない。フランスを発つときには、生命の保証もない異国へ旅立つので、二度と祖国の土は踏めない覚悟で家族と別れたという。当時の異国へ布教に行く伝道士たちの覚悟たるや、大変なものだったとつくづく思う。

「出津(しつ)教会堂」「黒崎教会」
 どちらもド・ロ神父の設計、建築である。
「出津教会堂」は神父が明治12年(1879年)に赴任してきて、復帰してきた信者たちと共に最初に作った教会堂である。外海の強風に耐えられるように屋根を低くした木造家屋である。細かいところにも神父の知恵を見ることができる。例えば、窓から30cmほど空間を保って雨戸が作られているが、これは、強風で雨戸を突き破った木の枝などが窓ガラスに接触しにくいようにとの考えだそうである。
 「黒崎教会」は、明治30年(1897年)敷地ができ、明治32年(1899年)から大正9年(1920年)にかけて時間をかけて作られた。信徒が一人一人レンガを運び積み上げて作ったので時間を要したのだろうか。遠方からも近くからもこのレンガの壁は美しい。鐘楼は禁教令が解かれてからも表に出て来ない隠れキリシタンに対しての帰依への呼びかけのために設置されたという。
 ド・ロ神父は、再びフランスに帰ることなく大正3年(1914年)74才で亡くなった。墓地は、最初に作られた教会出津教会堂から見下ろせる場所にあり、白い十字架が教会堂の窓から望める。神父が、生前に場所を決めたのだという。

「大野教会堂」
 出津地区から北へ行った大野地区に「大野教会堂」がある。ド・ロ神父が着任した時、この地区で26戸の信者が見つかった。この26戸の人たちと共に、明治26年(1893年)にこの教会堂を建てたという。外壁は、大野地区にある石を用いてこれを積み重ねて作られた。外壁は独特の味わいが滲み出ている。訪れた日はちょうど翌日が1年に1度のミサの日というので、村の女性たちが扉や窓を開け放ち、掃除をしたり花々を飾ったりしていた。人口減で信者も減り、教会堂の使用も次第に減って今日に至ったそうである。今後果たしてどうなるのだろうか。

「バスチャン屋敷跡」
 バスチャンは洗礼名であり、日本人であるが、日本名はわかっていない。枯松神社に祀られているサン・ジュアン神父を師として伝道士となり、熱心な布教活動によって伝説の伝道士と言われている。隠れ家を転々と移り住み、ここはその一つだったという。バス道から、歩いて数分山道を登っていく。枯松神社と周りの雰囲気は似ている。ただし、ここは枯松神社と違って、山の下の海岸が真下に見下ろせ、やってくる船はすぐ分かる。隠れやすい場所であるが、最後は役人の追求が厳しく捕らわれて殉教した。役人の探索追求がいかに厳しいかを物語っている。バスチャンは暦を作り、信徒の間でバスチャン暦として後世まで伝えられたとか。

「遠藤周作文学館」
 遠藤周作は、昭和41年『沈黙』を著わし、この小説が今も代表作となっている。名作として世界中で翻訳もされてきた。この作品の舞台となったのがこの外海地区である。遠藤は、隠れキリシタンの受難を題材にして書くべく、この地に何度か訪れたという。
 『沈黙』を記念して、碑が建てられ、文学館が作られた。「沈黙の碑」には、言葉が次のように刻まれている。
 「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに蒼いのです」
訪れた日は、快晴で空も海もすこぶる美しかった。特に、この「沈黙の碑」も記念館も、五島列島を望む最高の景観の場所を選んで建立されている。立ち去りがたい思いに駆られた。見つかれば処刑が待っている神父も信者たちも、この美しい蒼い海を果たしてどのような心境で毎日眺めていたのだろうか。
 遠藤周作の名作は、この景観あってこそ生み出されたものに違いない。

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