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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その十八、十九 五百川~福島)

池田 隆

 二十日目(平成二十九年十月一日)
 東京六時四〇分発の「やまびこ号」に乗り、郡山で乗換え九時前に五百川駅へ到着。秋晴れの爽やかな日である。この夏は不順な天候が続き老身には堪えた。S翁、М兄と小生、三翁揃って無事に歩き旅を再開できることを喜び合う。
 駅近くの五百川は磐梯熱海温泉の方面から流れてくる。京から数えて五百番目の川という。不治の病に罹った京の姫君が「五百番目の川岸に霊泉あり」のお告げを夢で聞き、訪ねて来たという。京都から約千㎞はある筈だ。それだけ歩ければ身体は問題ない、恋の病だったのか。
 遠方に安達太良山を望みながら阿武隈川の右岸堤を進む。河原ではパークゴルフを楽しんでいる。野球ボール大のプラスチィク製の球をウッドに似たクラブで打つパターゴルフである。面白そうで我々も誘われるが、時間が惜しい。
 明るい日差しに照り輝く対岸の緑と足元の清流を眺めながら歩いて行くと、道に沿い金属パネルの長い壁が現れる。放射能レベルの表示板がある。除染土の広大な置き場であった。ピクニック気分も萎え、根の深い厳しい現実に心は曇る。阿武隈川の魚は未だ食用に出来ないという。
 正面の木立に五重塔が見えてくる。平兼盛の詠歌「陸奥(みちのく)の安達ケ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」で知られる歌枕の安達ケ原の観音寺である。山門を潜ると鬼婆が棲んでいたという奇怪な巨石が目に入る。拝観を済ませ、S翁が持参の謡曲台本を取り出し、曲目「安達原」を朗々と謳い始める。
 諸国行脚の行者がこの地で老婆の棲家に宿を求める。初めは老婆の愚痴を聞いていたが、彼女の留守に閨を覗くと死骸の山である。逃げ出すが秘密を知られた老婆が鬼となって襲い掛かる。必死に如意輪観音を唱え、調伏し事なきを得るという筋書きである。
 他に参拝客もいない物語の現場で大声を出して謡い、S翁は満足げだ。寺の近くの阿武隈川の河原に残る鬼婆の墓「黒塚」へ寄り、旅館「智恵子の湯」に向う。

 二十一日目(平成二十九年十月二日)
 「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。ここはあなたの生れたふるさと、あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。……」と高村光太郎が詠った智恵子の生家は二本松市街の西の外れにあった。現在その近くは住宅団地を「智恵子の森」、阿武隈川に架かる橋を「智恵子大橋」と名付け、智恵子一色である。
 我々が泊まった所も「智恵子の湯」という日帰り客用の鉱泉を兼ねた宿屋である。家族的な暖かいもてなしに礼を述べ、玄関先で記念撮影を行って出立。今は「智恵子記念館」となっている彼女の生家に寄り、旧奥州街道を歩き出す。
 福島に向い阿武隈川は東に大きく迂回するが、街道筋は上り下りを繰り返しながら直線的に北上する。やや離れた所を国道が平行して走り、懸念していた車の通りは疎らである。
 快調に歩いていると「池田さん、杖は?」とМ兄が後ろから声を掛けてくる。よれ曲がった桜の枯枝を那須野ヶ原の森で拾い、杖として大事に持ち歩いてきた。今朝も宿屋の夫妻と仙人の杖のようだと話題にしたばかりである。
 記念撮影時に脇に立てかけ、忘れてきたに違いない。慌てて宿屋へ電話を入れると、先方も気が付いていた。「今、何処らですか。すぐに車で届けましょう。そのまま歩いていて下さい」との嬉しい返事、ご主人運転の車に奥さん、お孫さんも同乗し追いついてくる。
 樹に覆われた尾根を越える個所では、歩道に山栗や胡桃の実が足の踏み場がない程に落ちている。頭の上には小さな野生の梨が実っている。屈むのに難渋する私は敬遠したが、М兄は毬栗を足で割りながらしきりとビニール袋に入れて行く。
 ふと見ると「熊に注意!」の看板、傍に巨大で頑丈な鼠捕りのような罠が果物を吊るし仕掛けてある。つい熊へ同情し、フォト句用に一句をひねる。
罠だよと熊に忠告したくなり
 あとは一路、福島大学の前を通り、伏拝の丘の公園で小憩を取り、市街を抜けて福島駅前のホテルへ。

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