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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その二十、二十一 福島~貝田)

池田 隆

 二十二日目(平成二十九年十月三日)
みちのくの忍もちずり誰故に乱れ染めにし我ならなくに
 光源氏のモデルのひとり嵯峨天皇の皇子源融の和歌である。往時は信夫(福島の旧名)の綾形石の捩(も)じれた紋様を、忍草で摺込んで染めた絹織物が珍重された。「もちずり」は恋心の掛語という。
 その草木染用の石がある歌枕の文知摺観音に向け、福島駅前のホテルより歩き出す。二時間弱で到着、広い駐車場に車一台なく、見上げると多宝塔を包むように樹々が爽やかに色づき始めている。受付の人が「他に参拝客は来ていない。3.11以前は観光バスが連なる程だったのに」と呟き、文知摺石へ案内してくれる。
 苔の生えた二mほどの滑らかな丸い岩である。長年の間に埋ってしまったが、後年まわりの土砂を取り除き整備したとのこと。此処を訪れた芭蕉の句碑「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」や子規の句碑「涼しさの昔を語れ忍ぶずり」が傍に立つ。
 この地で東に大きく折れる阿武隈川に別れを告げ、西方の医王寺へと向う。両側に広がる果樹園は林檎や柿の最盛期を迎え、旧約聖書に出てくるエデンのようだ。たわわに実る赤い林檎が歩道を遮る。食べたくなり販売所を探すが見当たらない。一つぐらいと思うが、アダムやイブのように楽園から追放されるのも嫌だ。止めておく。
 小高い丘の上にある医王寺には義経の忠臣佐藤兄弟の一家が眠る。二人の息子を戦いで亡くした姑を嫁の二人が慰めようと、自身の悲しみを抑えて甲冑をつけ、夫たちの凱旋姿を装って見せたという。その逸話を聞いた芭蕉は涙し、一句を残した。
笈も太刀も五月にかざれ紙幟
 医王寺近くの険阻な山に佐藤一族の居城跡がある。敗れはしたが頼朝の大軍と激戦を戦わした古戦場だ。息を切らせながら登ると、さすがに山頂は福島盆地を一望に収める城塞の好適地であった。
 日も傾き始め、急いで足下に見える飯坂温泉へ下り始めるが、秋の夕暮れは早く、ホテルに着く時には夜の帳がすっかり下りていた。

 二十三日目(平成二十九年十月四日)
 飯坂温泉の渓谷沿いのホテルから歩き出すと与謝野晶子の歌碑「飯坂のはりがね橋に雫するあずまの山の水色のかぜ」がある。彼女は青空に吹く風を詠ったのだろう、今日も快晴である。
 山の南斜面を等高線に沿うように進む。鈴なりの林檎や柿の木が青空に映え、手を伸ばせば幾らでも取れそうである。
 我々の少年時代は腹を空かせ甘みに飢えていたので、他所の果実を勝手に頂戴していた。今では都心の公園や街路にも柿や夏みかんが鈴なりに生っているのを見掛けるが、それを取って食べる子供も見掛けない。したがって貧困家庭で小学生が餓死した等というニュースを聞くと不思議に思う。子供たちも動物的な生命力を失ったのだろうか。そのような今昔の比較を語り合いながら元悪ガキの翁たちは歩いて行く。
 旧奥州街道の桑折(こおり)宿に入ると、威風を放つ白亜の洋風木造建築の前に出た。門扉に重要文化財旧伊達郡役所と記され、無料で見学できるという。さっそく中に入ってみる。バルコニー、ステンドグラス、シャンデリア、赤じゅうたんなどの建物や内装は現在より格段に力を持っていた明治期の郡長と郡役所を彷彿させる立派さである。
 ここ伊達郡の歴史や産物に関する展示にも興味が湧く。伊達氏というと仙台藩を思い浮かべるが、その発祥の地はこの地方であった。頼朝の奥州征伐時に活躍した常陸入道念西が恩賞としてこの地を与えられた。念西は名を「伊達」と改め、以降伊達政宗が秀吉に国替えを命じられるまで、歴代の伊達氏がこの地を治めていたとのこと。
 明治初期、桑折の裏山である半田山の銀山が五代友厚によって開発され、伊達郡に繁栄をもたらしたとの説明もある。「半田ごて」の名前の起こりも此処らしい。
 ゆっくりと見学した後はひたすら旧奥州街道を北上していく。頼朝軍と奥州藤原軍の激戦が行われた大木戸古戦場跡を過ぎると、福島県と宮城県の県境にある東北本線貝田駅に着く。まだ歩けるが余力を残し打上げる。

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