現代のピタゴラス
昨年末、京大数理解析研究所の望月新一教授が「ABC予想」を証明したことに世界の数学界が驚き、新聞テレビでも話題になった。膨大で難解な論文は査読に五年を費やしたという。
素人の好奇心からインターネットを開いてみた。すると望月教授が独創的な理論を打立てる際の解説に、同じ研究所の教授であった伊原康隆君の名が出てくる。
彼は高校時代からの親しい旧友である。日本学士院賞を受け、フィールズ賞選考委員を務めるなど、日本を代表する世界的な数学者の一人に挙げられている。これまで数学の話は避けてきたが、今年の年賀状にうっかり、「ABC予想を分かり易く教えて」と書いてしまった。
すると細字でびっしりと書かれたハガキが律義にも返ってきた。ルーペをかざし精読するが、やはり私の理解力を越えている。ただ最後に「以上でかんべんして下さい。よくわからないので、」とある。謙虚な彼に六百頁の超難解な数学の論文の説明を気軽に頼んだのは迂闊であった。
改めてハガキを眺め直していると、頭の中はABC予想から高校時代の追想へと替る。私が受験数学に四苦八苦しているのに、彼は関数論や整数論の専門書を興味深かげに開いていた。古文や漢文では二人とも落第点を取り、互に顔を見合わせたこともある。
彼は大蔵省出身の大銀行頭取であった父親から文系進学を薦められていたが、数学への志向と意思は固かった。「数学では将来、飯に困る心配はないか」と訊いても、「駄目なら中学か高校の先生になるさ」と平然としている。
思い出の中でもとくに忘れ難い記憶は、物理がいささか好きだった私と数学得意の彼とで、「数学と物理、どちらが凄いか」と論じ合った時の言である。彼曰く、「生物学は地球上の生物が絶滅すれば不要となる。物理学も宇宙が消滅すれば無意味。対して数学はあらゆる物体や現象が無くても存在する絶対的な真理である」と。
数学を絶対神と崇めた若きピタゴラスの姿が彷彿と頭に浮かんできた。