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エッセイ・コラム

傘寿の賀

浜田 道雄

 昨年夏、八十回目の誕生日を迎えた。今では歳は満年齢で数えるから「傘寿」を迎えたわけだ。八十の賀を「傘寿」と呼ぶようになったのは、「傘」の異体字に「仐」というのがあり、八と十に分解できるところからだという。

 この「仐」という異体字を眺めながら思った。この字からの連想で、長寿を祝うなんでいうのは少々無神経な話ではないかと。
 理由はこうである。
「傘」には屋根の下にたくさんの「人」がいる。だから、大家族ないしは複数世代の人々が一つ屋根の下で暮らしている幸せな姿がイメージされる。この「傘」の下で暮らす老人は多くの人に守られて、幸せな日々を送っているに違いない。
 しかし、「仐」には屋根の下に「人」はひとりもいない。ここで暮らす老人は「孤独な老人」なのである。

 戦後日本は、高度成長のなかで家族の核家族化、少子化が進んだ。そこで人口の高齢化が進んだのだから、一人住まいの高齢者が増加し、「孤立化」「孤独死」「生きがいの喪失」「認知症」など老人たちの抱える社会問題が起きるのも当然とだといえる。
 私も成長する日本経済のなかに身をおいているころは、核家族化、少子化は当然と思いつづけてきたが、いま八十歳を過ぎ一人暮らしをするようになって見ると、そこにはいろいろな問題のあることに気づく。

 幸いにして、私はいまのところは心身ともに健康である。身体はまだどこも不自由になる兆候はないし、ペンクラブに参加することで「孤立化」も免れている。もの書きすることで「生きがい」をも失ってはいない。
 クラブの仲間と集まり、一緒に酒を飲み、ろれつの回らない舌で議論するときには必死にアタマを働かせるから、「認知症」の心配もまずなさそうだ。

 だが、世間は「傘寿だ」「傘寿だ」と祝いながら、私を健康な一人前の社会人とは扱っていないようだ。
 先日資金運用の相談をしようと付き合いのある銀行の担当者に連絡したら、「浜田さんは八十歳になったから、相談は一回でなく、二回やらせてもらうことになった」という。
 また、電話会社からは「新しいサービスができたので、それに加入する方が料金も安くなる」といってきた。早速乗り換えるといったら、私の年齢を聞いて「家族に代われ」という。一人暮らしだというと「では電話では受け付けられない。インターネットのホームページから申し込んでくれ」といい出した。
 どれもいま流行り(?)の“オレオレ詐欺”防止対策なんだとはわかるものの、元気でピンピンしていると思っている身には、「お前も認知症かも?」と疑われては腹立たしい。

 だから「仐寿」と呼んで長寿を祝ってあげようなどというのは、高齢化社会の抱える深刻な問題には眼をつぶったままの商業主義、ご都合主義なのだといわざるをえない。
 私はこんな社会に対して、「お前たちの腹のなかはわかってる」と腹の底から怒っているのである。

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