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エッセイ・コラム

目に見えるもの

松浦 俊博

 天気のいい日には、ローマのクィリナーレの丘から、遠くにある聖ピエトロのドーム屋根が大きく輝いて見える。いい景色だから写真を撮っておこうとカメラを覗くと「えっ」と驚く。大きく見えていたドームが、すごく小さく見えてがっかりする。また、カメラではピントがあったもの以外はぼやけて見えるが、目に見える景色は遠くも近くもそれ程ぼやけていない。

 視覚のメカニズムは既に解明されていると思うが、本などを調べないで想像してみるのも楽しい。カメラでは像を平面で検知するから、像の大きさは距離にほぼ反比例して小さくなる。これに対し、目の検知装置は透明で厚みがあるのではないか。厚みにより、遠くも近くも同時にピントが合う。遠くのものはレンズに近い層で検知し、拡大された像が脳に伝わるのかもしれない。あるいは、目の網膜の球面スクリーンが、このような機能を有しているのかもしれない。おそらく、遠くの点から目の位置まで糸をまっすぐに張っても、その糸はまっすぐではなく曲がって見えるのではないだろうか。

 遠近法を使った絵画では、直線を遠くから近くまで直線として表現するので、目に見える像とは異なるはずだ。勿論、目に見える通りに絵を描く画家もいるだろうが、どちらが正しいとかいうことではない。彫刻家は作品がどこに置かれるかを想定して各部の大きさを決めるそうだ。視点から遠い部分を大きく作るので、置かれる場所が予定と異なると大きさに違和感を生じる。万物は形をもつが、その形は仮のもので不変のものではないという色即是空を連想する。

 目に見えるものは三次元以下の次元の空間だが、平面では三角形の内角の和が180度に見えるのに、三次元球面の大三角形では270度に見える。見えるものを、普遍的に統一した形式で表現することはできないのだろう。さらに高次元空間については目には見えない。目に見えるものは限られているとつくづく思う。

 見えるということが脳の作用だとすれば、脳には視覚によらずに見えるものがあるのかもしれない。彫刻や絵画を見て感動するのは、視覚による像と脳に記憶された像が、共鳴現象を生じるということに思える。

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