技術計算「機械化」の夜明け
神楽坂を散歩中に「東京物理学校」とレリ-フを彫ったクラシックな建物を見つけた。漱石「坊ちゃん」の母校で、今は東京理科大学の「近代科学資料館」となっている。入館すると計算機の歴史を物語る数々の展示品が目にとび込む。それらを一つ一つ見ていくうちに東芝のタービン設計部で働き始めた1960年代頃の記憶が蘇ってきた。
発電用蒸気タービンの需要が国内で急増した経済の高度成長期である。その4割近くを鶴見にある東芝の工場で製造し、多忙を極めていた。タービン本体の設計課には約60名の課員がいたが、殆どは図面作りに追われ、性能や強度の計算を行い、機器の主要寸法を決める役は私を含め数名の若手メンバーであった。
毎日始業から終業まで机に向い、手計算でフォームシートを埋めていく。計算自体は蒸気表や計算図表の読取りと単純な四則演算であるが、1つの数値を求めるのに1日以上を要する緻密な作業である。
算盤の苦手な私には60cm長さの計算尺と手回しのタイガー計算器が大事な計算道具であった。そのほかフロアに1台だけカシオの机式リレー計算機が設置されていた。能率が格段に良いので、その座席を確保しようと同僚たちと競ったものだ。同じ機種が目の前に埃を被って展示されている。
カシオの席の奪い合いは“TOSCAL”という自社製のデスクトップ電卓が数台導入され収まった。それ以降も電卓の小型化が進み、設計者必携の道具も計算尺から関数電卓に交替する。懐かしい計算機具たちと半世紀ぶりに再会し、何やらOB会で旧友に会った気分に浸る。
当時の懐古は続く。設計の基本となる計算法やデータに関しては専ら技術提携先のGE社に頼り、我々には独り立ちするだけの実力がない。自ら進んで研究開発に取り組みたいが、その時間を割けない。演算の正確さと速さだけを競う定型的な仕事ばかりでストレスが溜まり鬱々となる。毎日帰宅後は妻に肩や首筋を揉んで貰っていた。
そのような時に電子計算機が世に出現してきた。幸いだ、これを早く活用し、ルーチン計算の時間を短縮させ、自主技術確立のための時間を捻り出そうと思いつく。工場に経理事務の合理化設備として穿孔テープ入力式の小型電子計算機が1台導入された。これを借用しての簡単な強度計算が私にとって技術計算「機械化」の嚆矢となる。大学生時代にアナログ計算機を自作したことはあるが、デジタル電子計算機の使用は初めてだった。此処の展示室に穿孔テープ式の電子計算機が見当たらないのは残念だ。
やがて東芝は川崎本社(現在の川崎ラゾーナの地)にIBM7090を設置した。日本が初めて導入した大型電子計算機3台のうちの1台である。我々は勇んでFORTRAN言語を学び、タービン設計計算の本格的な機械化に取り組み始めた。メモリーが32Kもあり、数学関数を自由に使え、蒸気表をサブルーチンとして組み込めるようになったことに感動した。大きな設計計算では数千ステップにもなったが、それらのプログラミング作業は帰宅後か休日出勤時に行い、通常の勤務時間は従来通りのルーチン計算を続けていた。
それにも拘らず自主技術確立に向けて意欲が湧いたせいだろう、以前のような疲れは覚えなくなった。工場と本社間の往復の度に持ち歩くソースパンチカード箱の重さ、冷房の利いた電子計算機室の快適さ、キ-パンチャーや計算機オペレーターへの気遣い、GEのマネージャーが我々のプログラムに感心し、部下の担当者に見習えと指示を与えていたこと等、様々な出来事が頭に浮かぶ。
ルーチン計算の機械化を数年間で全て終え、自ら念願の風洞実験や理論数値解析を始めた。そこでも試験要員の省力化と測定精度の向上を目的に実験装置の自動化に取り組む。データロガーに新発売の日立製ミニコン“HITAC10”を組込み、圧力や温度のセンサーからの信号をAD変換して入力演算し、サーボモーターでセンサーの位置制御を行う等、当時としては斬新な測定システムを完成させた。今のロボット技術につながる着想だった。そのために16進法の英数字4桁で表す機械語の習得に努めたことも忘れられない。
理論解析の分野でも有限要素法などの数値解析法が急速な発展を始めるが、その思い出についてはまた別稿としよう。資料館からの帰り際にあまりの懐かしさから、学芸員の方にその旨のお礼を一言述べると、何かに書き残しておいてくれと頼まれる。一人の老ユーザーの思い出話で、記憶も曖昧だが敢えて筆を執った。