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エッセイ・コラム

―計算尺哀話―

八木 信男

 池田さんが書かれたエッセイに登場した計算尺について書こうと思う。
 私の母校である東淀川高校は学園紛争で荒れた高校である。有名なOBといっても許永中と歌手のaiko、最近では漫才のノンスタイルしかいない。恩師であった数学の滋賀優先生は、少し数学ができそうな生徒を集めて計算尺クラブに入部させ、この地味なクラブを存続させてきた。私と他の2名も目をつけられて部員となった。計算尺が電卓と違う点は、正確な答えが出ないことにある。計算尺は、その名の通り、棒に目盛りが刻まれていて、1mmほどの幅のメモリの中にカーソルという線が大体どの数を示しているかを目測により値を出す。だから模範解答は一定の範囲であれば正解というのどかな計算機である。
 競技会もあった。正確さと速さを競うのである。当時、西野田工業高校が常に一位、二位が都島工業高校だった。参加校は6校。1位、2位が1校、3位が4校なので我がクラブも団体で3位になれた。私は茨木市の大会で個人戦で3位になった記憶がある。
 高校3年のある日、家電に勤務していた父が電卓を持ち帰った。この電卓は充電式で、情けないことに計算途中で電池がなくなると数字がろうそくの火のように消える代物だった。おまけに今の電卓のように平方根のキーがなく、説明書にある2の平方根を求める解説は今でも授業のネタに使っている面白いものだった。
「2乗すると2になると思う数を入力してください」と手品師がいいそうな書き出しだった。そして例えば1.3と入力し、指示された四則計算を繰り返し、10回ほどボタンを押すとやっと1.4まで求められるという、いまでは役にたちそうにない電卓であった。私はその平方根を求める解説に興味を持ってしまった。ニュートン法により求められると書いてあり、ちょうど微分を習っていたので、その手法が理解できた。それならと、3乗根の求めかたはどうするのだろうと考えた。果たして上手く求める方法を見つけたが、その時の喜びが、大学の数学科へ進むきっかけとなった。しばらくすると複雑な関数計算ができる関数電卓が登場。計算尺は役割を終えた。高校卒業時に、顧問である滋賀先生に当時は高価だった関数電卓を部員一同で贈ったが、計算尺を滅亡に追い込んだ電卓を贈るのは失礼で残酷なことだったかもしれない。
 大学へ入学したある日、生協を除くと、新入生相手に関数電卓が販売されていた。その横で、なんと計算尺の投げ売りが行われていた。高校時代には私には買えなかった高価なヘンミの計算尺が500円で処分販売されていた。私は、すべてを買い占めたかったが、1本だけ買ったことを覚えている。

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