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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その二十二、二十三 貝田~船岡)

池田 隆

二十三日目(平成二十九年十二月三日)
 福島駅で乗換えホームを間違え、ドアが閉まる直前に慌てて飛び乗る。逃すと次は二時間後である。翁三人胸をなで下ろしていると、福島・宮城の県境にある貝田駅へ到着。直ちに歩き始める。
 師走ながら心地よい小春日和である。越河(こすごう)宿場の民家には柿が簾のように干してある。長閑な山村を抜けると、国道沿いに「鯉料理」の看板を見つける。店へ入ると客は吾々だけ、店主が窓越しに見える生簀から大きな鯉を掬い上げ捌き始めた。鯉こくとあらいの定食を堪能し外に出ると、馬牛沼という沼に大きな鯉供養石碑が立っている。昔から名高い鯉の名産地とのこと。
 「鐙壊し」という急坂を下ると、坂上田村麻呂を祀る田村神社に出る。境内に「甲冑堂」という厨子のような御堂があり、社務所より媼が出て来て吾々翁に説明してくれる。
 扉を開くと義経の忠臣佐藤兄弟の嫁たち、姑孝行の楓と初音の武者姿の木造が並び立つ。鎌倉幕府軍に敗れた佐藤一族がこの地に隠れ住み、後に二人を弔うために建てた御堂である。明治期に焼失するが、孝行嫁の話が高等小学読本や小学唱歌になり、全国の学童に知れ渡った。今の御堂は学童たちからの寄付で再建された。唱歌の録音テープも掛けてくれる。
 小児疳の妙薬「孫太郎虫」はこの社の近くを流れる斎川で採れるトンボの幼虫が元祖という。路辺に大きな虫供養碑があり、その周囲には庚申塚と「申」と記した無数の小さな丸石が並ぶ。庚申の夜に天帝に人の悪を告げるという「腹の虫」と両者は何か関係がありそうだ。
 街道を暫く行くと白石の街に入る。まずは三層の天守閣が聳える丘の上の白石城へ。伊達政宗の家臣で天下の名将と称えられた片倉小十郎景綱の居城である。その息子重長が大坂夏の陣で宿敵の真田幸村から子女を託され、匿って養育したという逸話を思い出す。
 その夜は麓の温泉「薬師の湯」に宿泊。沢山のご馳走に満腹となり、釜飯はにして貰う。

二十四日目(平成二十九年十二月四日)
 白石川は奥羽山脈の南蔵王一帯を源流として東に流れ、白石、大河原、船岡を経て阿武隈川と合流、岩沼で太平洋へ注ぐ。白石から船岡までの二十数キロが今日の行程である。両岸には丘陵が迫り、右岸を東北本線が、左岸を国道四号線や旧街道が通っている。
 河畔の宿を出立し、白石川の右岸の土手と河原を進む。大気は冷たいが、陽ざしが暖かく絶好の歩き日和である。振りむくと蔵王連峰の頂が白く輝く。シベリア大陸から戻ったばかりの白鳥だろう、二羽が大空を元気に飛び回り、十数羽が川面で羽を休ませている。今年三月に那須野ケ原で見た北帰行前の白鳥の群れを思い出す。
 右岸の崖線が河川の間際まで寄って来て、鉄道と細い道路が肩をすぼめるように抜けていく。その先へ出ると東白石の駅舎が一棟ポツンと建っている。無人駅で周辺には民家も人影もない。一日に何人が乗り降りするのだろう。
 対岸遠く、車が国道を絶え間なく走っている。こちらの岸は数両連結のガラガラに空いた電車が時折通り過ぎて行くのみである。大河原から土手に沿い千本以上の老大木の桜並木が続く。大正期に地元の篤志家が植えたとのこと。花の季節に再度ぜひ訪れたいと三人で話し合う。
 右手の小山の上に大きな樅ノ木が見えてきた。山本周五郎の『樅ノ木は残った』の舞台となった原田甲斐の船岡城である。NHK大河ドラマでは平幹二朗が好演した。歌舞伎「先代萩」の題材となった伊達騒動の話である。伊達藩の重臣原田甲斐は大悪人というのが定説だが、周五郎は忠臣の彼が幕府のお家取り潰し策から藩を救ったと逆転の解釈をする。芭蕉と曽良がこの地を通ったのはその十八年後である。だがそのまた八年後にお家騒動が再燃する。彼らの隠密説が生まれた時代背景を想像する。
 よく整備された城址公園に登ると、蔵王連峰と今歩いて来た白石川を一望できる。山頂からの絶景を堪能し、急坂を下り船岡駅前のホテルに着く。

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