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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その二十五、二十六 仙台~松島)

池田 隆

二十八日目(平成三十年四月十八日)
 桜前線が例年より十日以上も早く北上し、船岡の一目千本桜も散り終わったとのこと。途中下車して花見の予定だったが直接仙台駅へ。ホテルに荷物を預け、さっそく旧塩釜街道を歩き出す。
 尾根道の途中で「比丘尼坂」の石碑を見つける。平将門の滅亡時、その妹が逃れてこの地で庵をむすび甘酒を道行く人に売ったという。彼女の美貌と甘酒が一躍有名になり、この地の名物になった。今は通行人も見掛けず、自動販売機も置いてない。
 やがて仙台市の北東部を流れる七北田川沿いの平地に出る。対岸には森を背にした崖が迫る。橋を渡ると摩崖仏や石窟で名高い東光寺の山門前に出る。この辺りが歌枕で有名な「十符(とふ)の菅」の里である。その菅菰(こも)は符(網目)が十列あり美しく上質であったという。
 みちのくの十符の菅菰七符には君を寝かせて三符に我が寝む 等と色恋の和歌に多く引用されている。
 ただ江戸初期には歌枕の正確な場所が分らなくなっていた。伊達四代藩主綱村が水戸光圀の依頼でその位置を特定し、十符の菅菰も復活させたとのこと。芭蕉が訪れた時代である。
 今では菅も生えておらず、住宅が雑然と並び、薄汚れた説明板のみで往時の面影はない。因みに此処を通る畦道を昔から「奥の細道」と呼び、芭蕉はその名を取って書名にしたという。
 さらに陸前山王駅まで歩を進め、電車で仙台駅へ戻る。夕食は県庁近くに在る魚料理専門店へ。企業OBペンクラブでセミプロ料理人と自他共に認めるО氏より推奨された居酒屋である。刺身も美味いが、極めつけは大トロ鰯の塩焼きである。丸々と太った鰯を内蔵も取らず、串刺しにして焼いてある。胴部をがぶりと噛みつくと、パリパリの皮の中から絶妙な味が舌に伝わってくる。隅々まできれいに平らげる。
 皿を片付けに来た若いウエイトレスに「実に美味かった」と述べると、「この鰯の味に魅せられて、私もこの店に勤めました」の返事、さも有りなん。

二十九日目(平成三十年四月十九日)
 陸前山王駅より歩き出すと、小川の先に草原の丘が広がる。多賀城跡である。南門跡に上り、振り返ると満開の桜の枝の間に蔵王の白い峰々が連なる。目線をやや下げると仙台市街の高層ビルが林立する。古代には国分寺の五重塔のみが緑の上に見えたことだろう。
 格子で四方を囲われた鞘堂がある。中には歌枕の「壺の碑(いしぶみ)」が鎮座する。天平宝字六年(七六二年)に建立された石碑で、多賀城の沿革と主要地までの里程が記るされている。蝦夷国境や靺鞨国境までの里程の記載もある。大和政権が蝦夷を敵視し、その背後に控える大陸の靺鞨を強く意識していた証である。歳月と共に多くの歌枕の痕跡が薄らぐなかで、芭蕉はこの石碑を見て涙し、俳諧の理念「不易流行」を感得したという。
 南門跡から幅広い官道の坂を登ると、政庁跡の平地に出る。今では礎石しか残っていないが、周囲までよく整備されており、往時の壮大さを偲ぶことができる。規模は大宰府にも匹敵する。単なる軍事前線基地ではなく、重要な政治拠点だったのだ。古代の陸奥は都人にとり魑魅魍魎(ちみもうりょう)の地ではなく、鉱物資源ゆたかな憧れの新世界だったのではないか。だから多くの和歌に詠まれ、歌枕も多いのだ。
 多賀城跡から陸奥総社宮や東北歴史博物館を巡り、塩釜港近くの高みにある歌枕の「末の松山」へ。
 百人一首の「契りきな形見に袖を絞りつつ末の松山波こさじとは」を思い起こす。この恋歌の下の句は貞観大津波の経験を後世へ伝えているともいう。今回もすぐ周辺は浸水したが、末の松山は無事だった。先人の言に耳をよく傾けていれば、被害は随分と小さくて済んだであろう。
 さらに「沖の石」、「野田の玉川」と歌枕を経て塩釜神社に向う。長い急な石段を登り参拝。急ぎ塩釜の船着き場へ下り、芭蕉にならい島めぐりの船で松島へ。景勝地はかなり復旧されているが、未だ残る大津波の爪痕に心が痛む。

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