二・二六事件(5) 宮中
天皇が異変を知ったのは午前5時20分頃。側近たちも大体同時刻に事件発生を知り、直ちに宮中に駆けつけた。最も早かったのは木戸幸一内大臣府秘書官や湯浅倉平宮内大臣で6時前だったと言われている。
ここで彼等は重大な上奏を行う。「ともかくも叛乱として鎮圧すべし、事件対処暫定内閣設置などはそのあと、当面不要」。天皇も事件を知った時から「朕が股肱の老臣を殺戮し……」と大層お怒りで、木戸らの上奏内容と同じ考えだったと後に伝えられる。さらに日露戦争戦費の国債償還がかかった国際金融の信用面からも早期鎮圧を、という上奏もあった。
昭和天皇は「國体とは大日本帝國憲法下の立憲君主制である」という強い信念の持ち主で、当時論争があった天皇機関説においても「機関でよい」と側近に漏らしていたという。決起軍の「國体護持即ち天皇親政」などというのとは正反対の考えであった。
発生直後、岡田内閣は首相殺害で崩壊したと考えられる状況下、側近が臨時内閣組閣は後回しにして叛乱鎮圧すべし、という軍事的内容を含む上奏を行ったのは大日本帝國憲法違反である。軍に命令を出すのは統帥権のある大元帥陛下であるが、閣議決定無しにそれに助言する資格があるのは維幄上奏権のある陸海軍大臣だけだからである。
しかし、その川島陸軍大臣が、決起将校に檄を飛ばされ、天皇親政シンパの皇道派将軍たちに担がれて決起軍の「決起趣意書」を上奏しても剣もほろろ、逆に即時鎮圧を催促される。坂下門制圧の失敗で、宮中を決起軍シンパで満たすとするシナリオは破綻していた。
天皇は首相殺害で崩壊した(とその時は考えられた)岡田内閣閣僚の辞表を受理せず、後藤内務大臣を首相代理として内閣を存続させた。
天皇の弟の秩父宮は決起軍中枢の第3連隊の第6中隊で中隊長を務めた事があり、決起軍の現第6中隊長安藤大尉は当時の部下、坂井中尉は連絡係だった。宮は非常時の憲法停止、天皇親政論を唱えて天皇と激論したことがあり、80年を経て今なお決起軍との関係について諸説語られる。事件当時は弘前の第31連隊にいて少佐・大隊長、弘前から複雑なルートと経緯を経て参内したのは27日の夕刻。しかしその参内は、事件後の動きに何ら影響を及ぼすことはなかった。
宮中は、決起軍がノーマークだった言わば第二列の側近に支えられた天皇を軸にして憲法や法律や慣習を無視して動いた。それはクーデター軍よりはるかに迅速で有効な反クーデター行動だった。