二・二六事件(6)戒厳令
事件発生直後から天皇の強力なリーダーシップによって「叛乱軍として鎮圧」で微動だにしなかった宮中に対し、事件当事者の筈である陸軍では事件発生直後から軍事参事官などの高官や軍閥官僚たちが、これを容認、あるいは利用しようと蠢いた。
エリート軍閥官僚たちは当時皇道派と統制派という二つの派閥に分かれていた。彼らは規模や実行方法はともかく起きるのは予測していたクーデターを前に、これを利用して自派閥の勢力を拡大し相手派閥の足下を掬おうと、29日に至るまで宮中の意向を探りつつ複雑怪奇な動きをする。陸軍将官たち、軍閥官僚の動きは今でも二・二六事件について一番論議が湧くところである。しかし、これらは二・二六にまつわる陰謀・逸話として講談的には面白いが、結果からみると枝葉末節にすぎない。実際これらの動きは天皇には一切報告されなかったし、報告されたとしても天皇は聞く耳を持たなかったであろう。
ともあれ、陸軍参事官らとともに参内した川島陸相が決起軍の趣意書を天皇に上奏し、決起軍に理解を示す陸軍大臣告示を出し、戦時体制警備が敷かれると決起軍も警備軍の一部に組み込むなど、陸軍中枢には事件容認の空気が強かったのは事実である。
26日午後8時、首相不在の内閣が戒厳令施行を決定、午後9時、後藤内務大臣が首相代行として閣僚の辞表を取りまとめたが天皇は受理を拒否。27日午前2時40分、緊急勅令により枢密院は戒厳令発令を決議、天皇はこれを独断で裁可、午前4時40分戒厳司令部作戦命令が発せられた。東京市は軍令により行政・司法を執行する戒厳令下になった。
首相不在の内閣を崩壊させずに強引に存続させ、戒厳令施行閣議決定まで持っていったのは天皇の強い意思であったことは疑いの余地は無い。天皇には軍事の統帥権があるものの、行政・司法も包括する戒厳令発令の勅令を発し、岡田内閣の正式な後継内閣組閣も無しに裁可するのは、緊急事態とはいえ大日本帝國憲法違反の疑い十分な凄い離れ業である。
戒厳令が敷かれても陸軍中枢は決起軍を戒厳軍に組み込んで形式的指揮下におき鎮圧に出なかった。業を煮やした天皇は「朕自らが近衛連隊を率いて……」と激烈な言葉を川島陸相に発したという。27日午後1時、岡田首相が救出され、内閣は崩壊しておらず形式的には維持されていたことがわかった。
事ここに至り、陸軍も決起軍鎮圧に出ざるを得ない。28日早朝には、戒厳司令部(現九段会館に置かれた)は叛乱軍鎮圧令を出し、首都警備に集めていた戦車を含む約2万人の戒厳軍で叛乱軍占拠の地域を包囲、対峙した。29日朝、攻撃命令が出て兵士への投降と帰営が呼びかけられた。有名な「兵に告ぐ」である。29日夕刻には、全ての将兵は投降または帰営、最先任将校の野中四郎大尉は自決し、決起軍は叛乱軍として無血鎮圧された。将校は階級章をはぎ取られ、代々木陸軍衛戍刑務所(現渋谷区役所界隈)に収監された。