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エッセイ・コラム

桜桃の世界に近づく

内田 満夫

 先日上京の機会があったので、太宰治終焉の玉川上水を覗いてみることにした。生来の道化癖、羨ましいまでの女性遍歴。自分とは対極の人間に見えて、私は太宰という作家を好きにはなれなかった。ところが、あるきっかけから関心を抱くようになる。太宰にというより、彼と深い縁の太田静子とその娘・治子母娘に、である。静子は、その日記が作品『斜陽』の成立に与ったという女性で故人。治子はその静子と太宰とのあいだにできた娘で、直木賞の候補にもなったことのある現役の作家だ。
 その太田治子女史が神戸の講演会に来たことがある。会場の入口で鉢合わせして言葉を交わしたのが機縁で、女史に一気に親近感を抱いてしまったのだ。それをきっかけに、直木賞候補作となった『心映えの記』の他、女史の作品をいくつか読んでみた。母・静子とともに生活と格闘する日々を淡々と綴っているのだが、味があってこれがなかなかに読ませるのである。運命を受け入れて健気に生きてきたこの母娘に、それですっかり感情移入してしまったという訳だ。
 JR中央線の吉祥寺で降りて井の頭公園を三鷹方面に向かって歩くと、ほどなくして問題の玉川上水に行き当たった。上水に沿って緑道が整備されていて、所々に橋が渡してある。5月にしてはきつい日射しのなかを、案内板を見ながら太宰の終焉を示唆する手がかりをさがして歩く。何度か行きつ戻りつしてやっと、一つの地図の片隅に小さく「太宰入水池」とあるのを見つけた。
 上水の川幅は7、8メートル、堤から川底まで4、5メートルばかりだろうか。小ぶりながら彫りの深い疎水だ。川幅全体が堤の両側からのびる木々の葉群れで、うっそうと覆われている。底のほうはというと、まるで太宰の怨念が漂うかのように仄暗い。水はその浅いところを少し、静かに流れているだけだ。こんな水路でも増水して急流になると、たちまちにして風貌を変えあっというまに人を呑み込むのだろう。近くに明治期のものという何方かの殉難碑があった。
 神戸への帰途、東海道線の国府津から御殿場線を一駅入った下曽我にも立ち寄る。ここはかつて静子が一人住まいしていたところだ。彼女が赤子の治子を抱いて、たった一人で宮参りをしたという神社はすぐに見つかった。母娘の来し方に思いを馳せながら誰もいない境内で一服していると、恰幅のよい老紳士がどこからともなく現われ、静かに柏手を打つとすぐに帰っていった。豊かな白髪のいかにも作家然とした風貌から、彼がこの母娘にゆかりのある人物に違いがないという気がふとした。
 「桜桃忌」の6月19日には、三鷹市の禅林寺にある太宰の墓前に全国からファンが集うという。私は昨年の7月に、静子の故郷・近江鉄道沿線の愛知川町(現愛荘町)を訪ねている。さしたる太宰読書歴はないが、これで自分にも愛知川、玉川上水、下曽我という実績ができた。ファンの群れに混じっても、少々の会話には堪えられるだろう。

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