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エッセイ・コラム

「三菱ダイヤモンド・サッカー」の時代

大平 忠

 本日の早朝、ワールドカップ「日本対ベルギー」の試合は、強敵ベルギーを土俵際まで追い詰めた素晴らしい試合だった。タイムアップ寸前、ついに逆転されたときには、早朝にもかかわらず日本中のため息が聞こえるようだった。

 いまの日本がこれほどワールドカップで盛り上がるとは、50年前には想像もつかなかった。50年前といえば、1968年。この年、テレビ番組「三菱ダイヤモンド・サッカー」が始まった。土曜日の夕方、ヨーロッパのサッカー、4年に一度のワールドカップを紹介する番組だった。当時はまだまだ日本のサッカー人口は少なく、いわばサッカー啓蒙のための番組だった。年配のサッカー好きは今でも覚えているに違いない。岡野俊一郎の名解説も魅力だった。この番組は1988年までちょうど20年続いた長寿番組だった。そして、この20年間で、日本のサッカーの普及と近代化が急速に進捗したのだった。

 1962年に、日本代表の監督・コーチは32才の長沼健、31才の岡野俊一郎の若手コンビが抜擢され、これにドイツから招聘したクラマーが加わって、日本サッカーの近代化へ向けた動きが始まった。長沼は、1962年から76年まで代表監督を務め(70、71年は岡野)、岡野はその間コーチとして補佐した。1964年の東京オリンピックでベスト8になり、さらに1968年のメキシコオリンピックでは銅メダルを獲得して、サッカーの人気が急激に高まる。しかし、この頃は、釜本も述懐していたように、ワールドカップはあまり念頭になかったという。学生サッカーから社会人サッカーへと主役が移っていった時代でもあった。
 長沼・岡野の若手コンビは、日本サッカーリーグの創設、ナショナル・トレーニング・センター制度の発足、ワールドカップ、ジャパンカップのスポンサー集めを始め、サッカー協会の財政的基盤も確立させた。さらに、長沼はサッカーのプロ化推進のため検討会委員会を設けて自ら委員長となり、川淵三郎等の動きをバックアップしてその後のJリーグの実現の後押しをした。

 話を「三菱ダイヤモンド・サッカー」に戻すと、番組のスポンサーは、珍しく三菱グループの各社で成り立っていた。仕掛け人は、私の勤めていた三菱化成の篠島秀雄社長だった。三菱各社に働きかけて出来上がった番組である。日本の今後の国際化のためにも野球以外にサッカーが国民的スポーツにならねばならないとの考えからだった。篠島さんは、東大サッカー部の名選手だった。昭和5年極東選手権大会(今のアジア大会)の代表チームの主将を務めチームは主将の得点で優勝した。
 篠島さんは、サッカー協会の専務理事、理事長、副会長を務め、長沼・岡野若手コンビの活動をバックアップしてきた。サッカー協会の次期会長の呼び声が高かったが、1975年に65歳の若さで早世された。築地本願寺での告別式には、サッカー関係者の参列が途絶えなかったことを当日整理係だった私は覚えている。長沼・岡野は、1974年に理事、長沼は1976年に専務理事に就任し、サッカー協会も長沼・岡野時代が到来する。「三菱ダイヤモンド・サッカー」の番組が終わる1988年には、今日のサッカー界の隆盛の基礎をほぼ作り終えたといえよう。言い変えれば、この番組も使命を終えたというべきか。

 ワールドカップ・対ベルギー戦を見て、篠島さん、長沼さん、岡野さんはどう思われただろうか。篠島さんは、いつもの辛口で「まだベスト8になれないのか」、長沼さんは、「よくやった、4年後頑張るぞ」、岡野さんは、「何故逆転されたか、即分析だ」、三人三様であろう。しかし、三人とも内心では喜んでおられるに違いないと信じている。

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