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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その二十九、三十 柳津~花泉)

池田 隆

三十二日目(平成三十年五月十二日) 東京を早立ちし仙台と小牛田で乗換え、十一時半前に気仙沼線の柳津駅に着く。М兄は流れ去る景色を車窓から眺め、「我ながらよく歩いて来たものだ」と感慨に耽っていた。柳津で北上川は現在の本流と旧北上川に分かれる。ここからの本流は治水のために明治期から昭和初期にかけて掘削された放水路とのこと。流域面積、流路長ともに日本で五指に入る河川だけに、水量豊富で大河の風格を備えている。
 その東岸に沿い旧街道を歩き始め、一時間半ほどで登米(とめ)市の登米(とよま)町に着く。「創業天保四年 酒みそ醤油 海老喜」と書かれた大きな暖簾が目にとび込む。古い店舗内を覗くと、「味噌アイス」とか「味噌まころん(クッキー)」といった斬新なオリジナル商品も並んでいる。
 それらを試食しながら女主人に「何故、登米(とめ)と登米(とよま)の二通りの呼び方があるのですか」と訊ねると、「とよま」が元々は正しいのですが、明治初期に中央の頓馬なお役人さんが「とめ」と言い間違い、以降は県の施設や郡名が「とめ」になったとの答え。最近の市町村合併で広域化した市はそれまでの郡名を踏襲したようだ。
 登米町には武家屋敷などのほかに、明治期に建てられた洋風の小学校校舎や警察署建屋がしっかりと保存され、「宮城の明治村」と呼ばれている。先ずは町中央にある観光センターの食堂で名物のB級グルメ「油麩丼」を注文し、腹拵えのあと町内を見てまわる。
 古い建物だけでなく、最近建てられた隈研吾設計の能舞台「森舞台」もある。近くで採掘された黒い玄昌石が屋根や玉砂利に用いられ、背後の竹林や森とよく調和している。舞台の床下も共鳴用の甕を剥き出しに見せ、彼らしい自然体表現を試みている。この町は藩政時代より今日まで能楽が盛んだという。
 河東碧梧桐の筆になる「芭蕉翁一宿…」の碑が脇に立つ登米大橋を渡り直し、北上川左岸を東和町米谷(まいや)まで数キロ遡る。

三十三日目(平成三十年五月十三日)
 岩手・宮城の県境にある集落「米谷(まいや)」で、北上川はS字を押し潰したようなヘアーピン曲線を描いている。登米領主の伊達相模守が新田開発と治水利水のために整備した河道で、「相模土手」と呼ばれる。昨夜泊まった民宿「まいや荘」はその土手の近くにある。
 「一泊二食 四五〇〇円」の看板を最初見た時には心配になったが、建屋は新しく清掃も行き届き、檜風呂やウオッシュレットの設備も整っている。泊り客は我々三名と素泊り客一名のみ。話好きの二人の年配の婦人が張り切って賄いを行っている。
 民宿のオーナーは岡山に住み不在、彼女らはお隣とお向いの主婦という。実務を全て任されているが、夜間は客だけを残して自宅に帰る。朝食時に道路状況を訊ねると、自宅から呼んで来たご亭主が親切に相談に乗ってくれる。彼女らと玄関先で記念撮影を行い、出発。
 曲りくねった相模土手をショートカットして、北上川の堤防を北に向うと、「お鶴明神」という可愛らしい小祠がある。大雨が降っても相模土手が決壊しないよう、堤防造成時に「お鶴」という他国出身の少女を人身御供にしたという。この地には江戸期まで神話時代のような迷信や風習が本当に残っていたのだろうか。
 河口から四十キロ地点にある排水樋門には、3.11の津波の際に水面が十一センチ上昇したとある。岩手県に入って直ぐの花藤橋で北上川と別れ、支流の金龍川に沿う東北自然歩道を進む。満開の山藤などをのんびり眺めながら日が高いうちに花泉駅前の「辰巳旅館」に着く。今日の客は我々だけと老主人夫妻が丁重に迎えてくれる。
 変哲ない外観の旅館だが、内部の造りや調度品は立派である。奥の座敷に通され、食事は据え膳にのせて部屋まで運んで来る。幾皿もの和風料理はどれも味がよく、柔い胆沢牛のステーキまで添えられている。値段は一泊二食付き七千円という。駅前老舗旅館の良さを改めて見直し、誠実に営業を続ける夫妻に乾杯する。

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