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エッセイ・コラム

「奥の細道」翁道中記(その三十一、三十二 花泉~平泉)

池田 隆

三十四日目(平成三十年五月十四日)
 夜半からの雨が朝方に止む。日中は晴との予報に安心して旅館を出たが、雨がまたぶり返す。芭蕉と曽良も一関を前にして雨に難儀していた。偶然にせよ不思議な縁を感じる。
 旧街道が直ぐに新しいバイパス道路と合流する。しかし二万五千分の一の地図にはその記載がなく、コースの見極めが難しい。不安を抱えながら暫く歩いていくが、やはり方角が違っていた。来た道を戻るのも癪の種、遠回りするコースを探し、小高い山林を抜けて行く。雨が止み、彼方此方の樹々に山藤が絡まり鮮やかに咲き誇っている。幹の頂きや枝先にまで蔓を伸ばし、淡紫色の花房を無数に垂らす巨木もある。あたかも打上げ花火の「しだれ柳」のようだ。
 二キロほどまわり路となったが予定外の快適な逍遥を楽しめ、何か得した気分で本来のルートに戻る。「芭蕉行脚の道」と書かれた石碑が立ち、「日本の道100選」に選ばれたとのこと。林檎の果樹園などがある山里を通る長閑な旧街道である。ところが突然バイバス道路に取って替られる区間が数か所もあり、トレースが難しい。 慎重に道を選び、一関駅前に着く。駅ビルのベーカリーレストランで昼食休憩後、市街地を抜け東北本線の山ノ目駅へ。駅の裏側にまわると北上川遊水地の大堤防が線路に沿いに続いている。北上川は一関の下流域で山が両岸に迫り狭窄している。そのため大雨時には一関より上流の開けた平地は洪水に浸され易く、広大な遊水地が必要なのだ。
 真直ぐな堤防の上を黙々と平泉へ向うが、正面に見えている高館橋に中々近づかない。歩きながら桜の名所だったという右手前方の束稲山(たばしねやま)を眺めていると、西行、義経、芭蕉などもこの同じ山並みを見ながら平泉に辿り着いた筈との思いに駆られる。それぞれが如何なる思いを抱いていたのかと感慨深い。
 ついに平泉市街に到達。柳之御所遺跡を見学した後、観自在王院跡に隣接するホテル「武蔵坊」へ向う。

三十五日目(平成三十年五月十五日)
 「奥の細道」道中の第一フェーズ(深川~平泉)の最終日である。
 藤や小梨の花が彩る「舞鶴が池」を巡り、毛越寺(もうつうじ)へ。復元され世界遺産となった「大泉が池」庭園は穏やかな緑の山に囲まれ、枯山水風の独特な石組を池面に配し、二艘の龍頭鷁首を浮かべている。
 藤原三代が造営した極楽浄土の光景に思わず一句、
  三代の栄華を今に藤の古都
 次に義経が最期を遂げた高館(たかだち)へ。小高い丘の上に伊達藩主が建立した義経堂が建つ。芭蕉は眼下の衣川や御所跡を眺めつつ泪を落とし、名句を生んだ。
  夏草や兵どもが夢の跡
 平家打倒に最大の功績を上げながらも頼朝の不興を買った義経に、芭蕉は虚しさと憐憫を覚えたのだろう。頼朝や義経に私も思いを馳せていると、近くから時鳥の鳴き声が聞こえてくる。時鳥に託して信長、秀吉、家康の性格を詠み分けた句「鳴かぬなら……」を思い浮かべてそれらを捩り、頼朝に対し
  鳴いたとて殺してしまえ時鳥
義経に対し
  鳴いたとて無駄だと知らぬ時鳥
と加え、兄の冷徹な心を読み切れなかった弟の悲哀に同情する。
 最後に中尊寺へ。長い参道を登って行くと大勢の観光客の中に外国観光客も多く、世界遺産の威力を肌身に感じる。本堂を参拝後、金色堂の鞘堂に入る。本尊の阿弥陀如来をはじめ御堂全体が今も金色に輝いている。歌枕を巡り歩き歴史遺産の保存を強く願う芭蕉は、鞘堂を「頽廃空虚の叢となるべきを四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時、千載の記念とはなれり」と称え、
  五月雨を降りのこしてや光堂
と詠んだ。現在の鞘堂は半世紀前に建てたコンクリート製で、芭蕉が見た木造の旧鞘堂は重文として離れた所に保存されている。
 その前に立つ芭蕉の像を見て、
  空蝉の鞘堂たたふ芭蕉翁
 中尊寺境内の最も奥にある食事処「かんざん亭」のテラスで雪を冠る焼石岳を望みながら第一フェーズ完遂に祝杯を挙げ、一関から象潟までの第二フェーズを今秋から三人元気で開始することを期す。

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