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エッセイ・コラム

密教化するインド仏教 3.三密加持による即身成仏

斉藤 征雄

 密教以外の仏教(顕教)で悟るとは、ブッダの悟りを追体験することである。その状態に入ることを成仏といい、ブッダと同じ宗教的人格を実現したことになる。
 悟りを開くのは容易なことでは実現しない。前世譚ではブッダでさえ、この世に生まれる以前に限りない輪廻転生を繰り返したとされるから、凡夫が悟るには無限に近い期間の修行が必要である。(三劫成仏…劫は無限の時間、成仏するには無限の時間の三倍かかる)
 密教における成仏は、大日如来と一体になることである。一体になって得られる力によって即身成仏する。すなわちこの現世においてこの身のままの姿で悟りを得て仏に成れると説くのである。
 密教が生まれたのは、現世利益を取り入れて民衆に近づくためだった。そのためには、成仏するのに無限の時間がかかるというのでは民衆はついてこない。そこで即身成仏ということになるのであろうが、考え方の基本は、我々は本質的には大日如来と同じであるからそのことを自覚さえすれば瞬時に悟りの境地に入れるということである。
 即身成仏の考えはインドに既にあったが、それを確立した空海は、悟りを求める心(発信)と、確信をもって修練する心(信修)があれば、「草木さえも成仏する」といっている。

 大日如来と一体となるにはどうすればよいか。それは、三密加持と呼ばれる修法である。
 顕教では煩悩の源を三業(身業、口業、意業)というが、密教では煩悩も大日如来の真理の顕れであるから正しく用いれば成仏の手段になる、との考えで三密(身密、口密、意密)を修法の基本とする。
 具体的には、手で印(左の人差し指を右手で握る)を結び(身密)、口で真言・陀羅尼を唱え(口密)、心に大日如来の姿を描く(意密)の三つを行じて深い瞑想に入る。
 こうした瞑想の中で、大日如来の慈悲とわれわれの信心の心とが一体となることを加持という。三密加持することで、大日如来つまり宇宙の絶対者との合一、一体化が生まれて、修行者の即身成仏の道が開かれるのである。
 顕教は、心だけを問題にする。それに対して密教は、身体とことばと心の三つの働き、すなわち人間的な全行為をもって絶対者との一体化を目指す。そこに密教の持つある種のエネルギーを感じさせるのである。

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