抽象化は苦手
先日、本棚に投げ込んであった曽祖父の本を少し並べ直した。ほとんどが江戸末期から明治初期に使っていた算法と漢文の本だが読めない。16世紀末に中国で書かれた有名な算法統宗の日本版や、算法の名のつく本を選んで手に取り図を眺めた。色々な形状の周長・面積・体積や測量の計算を扱っている。曽祖父と同時代のヨーロッパではガウスやリーマンが微分幾何を発展させており、日本の数学はずっと遅れていたように思われる。何が違うのか。デカルトに代表される抽象化の考え方が日本にはなかったのだ。
抽象化は物事の構成要素を抽出することから始まる。例えば長さ・重さ・時間を基本要素と考え、これらを組み合わせて複雑な要素や現象の説明を試みる。重さについては、さらに質量と重力加速度という要素に分解することが16世紀末のヨーロッパで考えられた。ガリレイが行ったと伝えられるピサの斜塔からの重さの異なる2つの球の落下実験は有名である。これは天体観測結果から洞察されたことであろうが、日本では天体観測は災いの予言の範疇で停まった。
私が高校生の時に、米国の高校生が使う化学の教科書の翻訳版が図書館にあった。当時授業で使った日本の教科書には、いろいろな化学反応の化学式とか色の変化などが書かれており、覚えなさいと言わんばかりだった。米国の教科書には反応が起きるためのエネルギー閾値やエントロピ変化が共通要素として抽出されており、これが本当の化学なのだと衝撃を覚えた。
日本の大学の工学部の授業では、ベクトルや複素数を使えば簡単な式で表現できるのに、座標系の各成分に分けて長い式を並べる先生もいた。長い式からは、その意味を説明する言葉が伝わってこない。意味も分からず、そのまま何かの計算に使うのなら実用には便利なのかもしれないが、それでは本質に迫れない。英国で同様の授業を受ける機会があったが、演算子による簡単な表記を用いて式の意味を分かりやすく説明していた。すなわち、状態量とその量に対する作用とを分けることによって抽象化がなされたことになる。この抽象化により、例えば電磁気と流体という一見異なる性質の物についても共通の特性のあることが推測できる。
抽象化の思考習慣は、日本では明らかに遅れている。欧米では人の交流が大規模に常時行われるため、その中で生まれた抽象化思考が浸透しているのだと思う。日本は鎖国時代を引きずらないで表面だけではなく思考習慣を変える時だ。