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エッセイ・コラム

わがソウル・フード —ジャガイモのキンピラ—

浜田 道雄

 ジャガイモのキンピラは千切りにしたイモをゴマ油で炒め、砂糖と醤油で味付けする。それだけの至極単純かつ貧しい料理である。

 戦争が終わってまもなく、疎開していた信越国境の村から母とともに東京に残っていた父の元へ戻ってきた。戦前に住んでいた家は戦火で焼かれて跡形もなく、父は大森の工場街に住んでいた。だが、そこも一面の焼け野原で、遠く近くに焼けたビルの残骸の残る索漠とした街だった。

 戦後すぐの東京はひどい食料の不足に悩まされていた。政府からの食料配給はわずかで、私たち家族が生きていくにはとても足りなかったから、母と私は近郊の農家から食料を分けてもらう、いわゆる「買い出し」にも頻繁に行かねばならなかった。

 そんななか母は近くの焼け跡の瓦礫を取り除けて畑を作り、ジャガイモを植えた。幼い妹を背負って畑を耕す母を手伝ってわたしも畑の土をおこし、イモの苗を植えた。掘り返したばかりの土の香りは意外と芳しかったし、育っていくイモを眺める日々の作業は楽しかった。
 そんな焼け跡の畑でも家が焼けたあとの灰分が多かったからだろう、ほとんど肥料をやったわけではないのに、イモはよく育った。それは食べ物の乏しい日々のなかではうれしいことだった。

 その畑でとれたジャガイモで母はキンピラを作った。皿に山盛りになった湯気の立つキンピラは貧しいわが家の食卓を盛り上げ、その日だけの小宴を華やかなものにした。
 腹をすかせた幼い私や姉妹は、ガツガツとそのキンピラを頬張る。イモを噛みしめたときのサクッとした食感。口いっぱいに広がるゴマ油の快い香り。それは飢えが日常であった戦後にあっては、このうえなく豪華な、そして腹をいっぱいにしてくれるご馳走だったのである。

 だが戦後も二、三年が過ぎると世の中も落ちついてきて、疎開していた人たちも戻ってきて新たな家を作りはじめたから、私たちの畑もまもなく終わりになった。以来、母のジャガイモのキンピラはたまにしか食卓に上らなくなり、私もまたいつしかその味を忘れていった。

 それから七十数年が過ぎた。母が逝って四半世紀近くが過ぎたこのごろ、一人暮らしになった私は母の作ったあのジャガイモのキンピラを思い出すことが多くなった。そして、とうとう昔の記憶を頼りに自分でキンピラを作ってみようと思い立った。
 物資の極端に不足していたあの時代だから、母はわずかの砂糖と醤油以外にたいした調味料は使わなかっただろう。だが、今は飽食の時代であり、さまざまな調味料を手にすることができる。だから、いまあの貧しい時代に母が作ったキンピラを忠実に再現しても、わたしの舌は到底満足しまい。そう思ったわたしは、母の使った砂糖や醤油だけではなく、ミリンもワインもたっぷりと加えることにした。

 できあがったキンピラを頬張る。新ジャガの千切りはあのシャキシャキとした歯ざわりを思い出させる。鼻をくすぐるゴマ油の香り。これもいい。たしかに、あの苦しかった日々に母が作ってくれたキンピラを思い出させた。

 だが、それはあの母の味ではない。
 しばらくして気づいた。あのころは食べ物も少なかく、生活も苦しかった。だが、だれもがその苦難を我慢し、克服しようと頑張っていた。母もまたそうだった。だから、あのキンピラにも、戦後の厳しい時代を生き抜いた母のたくましさが入っていたのだ。家族を思う暖かな心がこもっていたのだ。

 わたしは、自分の作ったキンピラを噛み締めながら、母とともに焦土を掘り起こし、畝に土寄せし、雨の少ないときには水やりをしてイモの生育を願った畑仕事の日々を思った。あの日々は、私の“労働”の原点でもあったのだ。
 母のジャガイのキンピラは、私の心のなかにあるなにかを作り上げた大切な要素だった。わたしの心身を構成するかけがえない部分だったのだと気づいた。
 だから、母のキンピラは単なる「おふくろの味」ではない、私にとっては大切な「ソウル・フード」なのだ。

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