有備館にて伊達邦直公を知る
城下町「岩出山」は芭蕉一宿の地である。我々も「奥の細道」の道中に立ち寄るが、今では旅館が一軒もないほどに寂れている。国土地理院の地図を開き其処に一つの史跡印∴を見つけた。訪ねてみると「有備館」という旧藩校で、その寄棟茅葺書院造りと回遊式池泉庭園は国の指定史跡名勝という。正門前には陸羽東線の有備館駅がある。
東日本大震災で倒壊した建屋は立派に復元され、風趣豊かな広い苑池も楓が色づき始め今が見頃である。だが史跡以上に感銘したのは室内にパネルで展示してあった「伊達邦直」公の功績である。
公は仙台藩の支藩、一万五千石の岩出山伊達藩の最後の藩主である。奥羽越列藩同盟側に与し禄高を六十石に減らされた。七百数十人の藩士とその家族を養うために蝦夷地開拓を決心し、開拓使との交渉と現地調査に出向く。
最初に提示された場所は開墾に全く不向きな石狩川上流の奥地であった。やむを得ず次に提示された石狩川河口の地へ第一陣の移住団を招く。一行は海が荒れ上陸もできずに室蘭側より這うほうの体で辿り着く。しかしその地も風の強い砂地で農業には全く不向きであった。移住者の生活は辛苦を極める。
公は自ら率先して土地探しに奔走し、運よくやや内陸の当別の原始林に好適地を見つけた。第二陣を呼び寄せ本格的な開拓に乗り出すが、第一陣の悲惨な話が伝わっており希望者が集まらない。公は国元へ一旦戻り、この有備館で旧臣たちの説得に当ったという。
武士の素人農業は困難を極めるが、若者を東京に派遣し西洋農具などの近代農法を習得させ、その活用を図る。公と旧家臣の努力は徐々に実り、やがて当別は北海道開拓の模範地域となる。公は当別神社に祀られ、今も敬われている。
「勝ち組」藩の士族の多くが不平不満を募らせ、佐賀の乱や西南戦争を起こし没落したのに対し、「負け組」側の旧諸侯や旧藩士は刻苦勉励し北海道を日本の穀倉地帯に育て上げた。
展示パネルを見ながら痛感する、
「負け組の勝ち」と。