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エッセイ・コラム

「西郷どん」  両雄決裂の場・・・大久保の涙

大平 忠

 今、(11月18日21時)、 NHK大河ドラマ「西郷どん」を見終わったところである。今夜は、朝鮮使節派遣をめぐっての西郷隆盛と大久保利通の両雄対決の場であり、脚本も俳優たちの演技も腕の振るいどころであったと思う。
(私は、大久保利通の名前を広くもっと知ってもらおうと、この7、8年当クラブの「何でも書こう会」や「エッセイコラム」などに度々投稿してきました。その経緯もあり、今夜のドラマに対する感想を書きました)

 以前調べた史実では、閣議が決裂し一度は敗れた岩倉具視、大久保利通は、三條実美が精神錯乱で倒れたことを利用し、伊藤博文、宮中の薩摩人脈も駆使して反撃し粘りに粘り、ついに再開した閣議で逆転する。ドラマではここまでは切り込んではいないが、この短時間での宮中工作には大久保の執念の凄みが感じられる。
 実は、西郷との対決を決意した大久保は、閣議の数日前に二人の息子に遺書を残した。内容は「国の進むべき道を決めるにつき、自分の信ずることを父は行う。これは自分にしか出来得ぬことである。変が起こるやもしれぬが、その前に父の思いを知らせておく」(大久保利通日記から)このいわば謀略による逆転劇は、大久保が鹿児島であるいは全国的にも人気がない最たる理由であろう。しかし、大久保の国の進むべき道に対する思いがいかに不退転のものであったかを物語っている事例でもある。
 ドラマでは、閣議が逆転した翌日、西郷が薩摩へ帰るに際して大久保に会いに立ち寄る場面がある。ここで、西郷が大久保に「なぜおいに言わんかったか。おいとおはんはそんな仲か」となじる箇所があり、大久保の器量の小ささを視聴者に感じさせた。この場面には異議ありである。西郷もそうだが大久保も事をなすにあたっては、当然のように命を賭けている。西郷は、大久保には大久保の理由があって捨て身に出ていることは十分承知しており、ドラマのようなセリフは出てこないはずだと思う。
 別れの場に居合わせたという伊藤博文から聞いた話として、西郷、大久保両人に近かった高島鞆之助(のちの陸軍大臣)談によれば、
「西郷は『おいは帰る、後のことはよか頼む』と言われたそうじゃ。大久保公は『おいは知らん』と素っ気なく言われた。西郷翁はいつになく眼を怒らして『知らんとはなんつうこつか』と言ってそのままプイと行ってしまわれた」
 西郷は、考えがどんなに違っても大久保しか国を背負える人物はいないと認めていた。それに対して大久保は西郷が全てを放り出して薩摩へ帰ってしまう癖が出たと難じている。また、おい一人にやれというのかと。大久保の胸中に湧く辛さと寂しさの深さを知るのもまた西郷しかいなかったのではないだろうか。
 やはり、脚本は視聴者に分かりやすくするために、説明的にならざる面もあろう。(林真理子の原作は知らない)お互いを知り尽くした両雄二人の会話は、言葉短く禅問答のようなものだったのではないかと想像する。

 高島鞆之助は、さらに言う。
「明治11年5月の紀尾井坂での凶変の時に、大久保公は二通の書状をポケットに入れておられた。これは、維新前に西郷翁が大久保公に送った手紙で三丈もある長い手紙じゃ。・・・それが血で真っ赤になっていた・・・三條公から戻ってから(その手紙は三條公へ貸してあった)3、4日も肌身離さぬ持っておられた心持ちが、おいにはよう分かる」
(ここで将軍から談を聞いていた記者が記す・・・このとき翁は袂よりハンカチを取り出して・・・涙を拭われた・・・翁に育まれ公に薫陶を受けた将軍が今にして相別れて逝った両雄の心事を語るにあたり、どうして涙無くして語れよう)

 テレビドラマ「西郷どん」は、俳優もよく頑張っており、時々文句を言いながらも楽しく毎週見ています。しかし、今夜ばかりはちょっと補足したい気分になってしまったのです。

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