古典を読み直す楽しみ
昨年秋のこと、立ちよった本屋で『トマス・アクィナス』(山本芳久、岩波新書、2017年)を手にしたところ、「愛あるところに目」という序文の小見出しが目にとびこんできた。これはトマス・アクィナス(1225年頃~1274)の格言だとある。先を読むと、人にしても芸術作品にしても愛情をもって接すると、その人のよさや作品の素晴らしさがより深く理解できるようになることを意味する、とある。トマスはそれを目のはたらきによると考えた。「恋は盲目」の状態とは逆だ。今流に表現すれば、愛することにより大脳のなかで理解・記憶・情緒をつかさどる領域が活性化される、ということになろう。トマス・アクィナスについてはダンテの『神曲』を勉強していた時、解説の資料にたびたび引用されていて興味を持っていた。しかし中世の神学者の著書を読むまで手がまわらない。新書を手にして、これならなんとか読むことができるだろうと考え、買いもとめた。
著者の山本氏は序文のなかで人や音楽についてふれ、読書へと敷衍してゆく。愛読しつづけてこそ書物の魅力がわかってくる。単なる情報収集やハウツー本ではなく、読むこと自体が人生の最も豊かな時間となる書物がある、という。古典とよばれる作品がそれで、トマス・アクィナスの『神学大全』もそのなかにはいる。氏はさらにトマスの著書を解説する姿勢についてのべてゆく。副題になっている理性、神秘といった中世の神学・哲学用語を解説するのは容易ではない。分かりやすく説明するように心掛けるが、そのために分かりにくさを切りすてることはしない。分かりにくいということが分かるのも大事だ。このようなことは、専門家は誰しも自分の領域について話すときに感じることだ。序文に同感しながらなかなか本文にまですすんでいかない。
山本氏の文をきっかけに、自分の経験をふりかえってみる。古典音楽は若いときから好きで、CDやレコードで、あるいは実演をとおして聴きこんできた曲がある。例をいくつかあげると、「マタイ受難曲」(バッハ)、「ワレキューレ」(ワーグナー)、モーツァルトのオペラ「ダポンテ三部作」や弦楽曲、シベリウスやブラームスのヴァイオリン協奏曲など。これらの曲は聴くごとに感慨を新たにさせてくれる。演奏者による表現法の違いを聴きとっていくのも楽しみだ。
古典文学で勉強したのは、カルチャーセンターで約十年にわたり毎月受講した藤谷道夫氏(現慶応義塾大学教授)による『神曲・地獄篇』(ダンテ)、月二回訳者による講義で三年半かかった『ファウスト』(ゲーテ、柴田翔訳)、現地に出かけては読み込んだ『イタリア紀行』(ゲーテ、相良守峯訳)など。これらは読めば読むほどに奥深さを見出し、感動を新たにする。まさに豊饒な世界を旅していくようなものだ。
音楽について書くのは容易でない。しかし、いつか試してみよう。
古典文学については、興味を抱いたところを折に触れてエッセイの題材に取りあげてみたい。自分なりに読みこなして分かりやすく書くのは、今となってはきつい作業になるかも知れないと思う。一方で、今だからこそできるのではないかという気も沸いてくる。トマス・アクィナス流に目をはたらかせて古典を丁寧に読み直せば、山本氏がいうように人生の最も豊かな時間が持てるかも知れない。若葉が萌え出る時季にそんな期待感が膨らんでくる。