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エッセイ・コラム

7月は田植えだ

志村 良知

桜も終わり緑が美しい。さあ田植えだという地方も多いであろう。
 純農家だった生家の稲作は、私が子供の頃には当時の6人家族の一年の食い扶持を引くと幾らも残らず、生活を支えるという規模ではなくなっていたが、それでも田植えは心躍る半ばお祭りの行事だった。

 生家のある集落は八ヶ岳の韮崎泥流の西側を釜無川が、東側を塩川が削り取った七里が岩という長い舌上の台地の上にあり、田んぼはそこから中央線の踏切を越えて下った藤井平という塩川の氾濫原にある。七里が岩の山林は田んぼの水源になるほど大きくないので、灌漑水は八ヶ岳に端を発する塩川の上流で分かれた用水路や田んぼ自体を使って何キロも伝ってくる。
 水を落としてしまえばすぐ軽トラも走れる乾田で、麦との二毛作が行われていた。この麦の収穫と、上流側の田植えが全て終わらないと用水が確保できない(灌漑水の確保が難しい状況を水が固いと称した)ことから田植えは7月になった。日本一遅い田植えである。水が固くて遅くなる年には7月も半ば、津島神社の末社の祇園さんのお祭りぎりぎりになった。
 私の子供の頃の一連の田植作業は、代掻きの耕運機を除いてすべて手作業だった。田植えは各家の他の農作業の進展や灌漑具合で斑状に進む。農道から直接入れず、他所の田んぼを通らないと入れない田んぼもあり、道路側田んぼには慣習通路が確保されていた。この通路は昔の名残で馬入れと呼ばれており、馬入れは奥側の田んぼの田植えが終わるまで苗を植えて塞ぐことはできなかった。実際の馬による代掻きはごく小さいころ見た記憶があるが、小学校低学年頃には馬は見なくなっていた。

 泥で畔をこしらえ、田んぼに水が入ると、耕運機を持って賃仕事で代掻きをして回る業者に頼んで代掻きをしてもらう。二日ほど経って代が落ち着いたら田植えである。植え方は田んぼ一杯の幅の縄を数条づつ移動させながら動かしていき、早乙女さんが横に並んで数メートル巾の責任範囲を持って後ろに下がっていく方法であった。植えるのは女と決まっていて家族の女に加え、縁者や賃雇のおばさんが集められた。彼女らは何歳であってもこの日ばかりは早乙女である。
 男は縄の移動、苗間からの苗の運搬、畔や水路の整備などの周辺仕事。田んぼに入って早乙女の面倒を見るのは、これから植える代を荒らさないよう体重が軽い男の子の仕事だった。「ここんところを均しとくれ」と早乙女さんのリクエストに応えて足をとられる中での鍬を持っての代の手直し、早乙女の手元への過不足ない苗配りは重労働だった。子供の担当にはまだ畔豆播きという、泥の畔に木の棒で縦に穴を開け、大豆を2,3粒づつ入れて塞いでいくという作業があった。大豆は秋に収穫され、味噌炊きに回された。この労働力確保のため小学校は一週間ほど農休みになった。

 昼飯は七里が岩台地の麓の諏訪神社末社の氏神様の境内に集まった。氏神様と梶の葉の家紋を同じくする志村本家は神楽殿の上と決まっており、旬時になると、爺さんと婆さんが家から籠で担いで運んできた。勿論赤飯で、田植え時のおかずは鰹の生利節の煮付けと決まっていた。

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