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エッセイ・コラム

猫のおしっこ

浜田 道雄

 丹沢山麓に暮らしていたころ、わが家には2匹のメス猫と1匹のオス猫がいた。彼らは20年も私たちと一緒にいて、わが家の庭や畑を走り回って遊び暮らしていた。

 その彼らのトイレだが、私たちはとくにそのための場所を用意しなかったから、猫たちは庭や畑のどこかですましていたのだろう。家のなかなどでおしっこの臭いに悩まされることはなかった。
 だが、梅雨どきの湿度の高いムッとする天気のときなどには、庭のどこからともなく猫のおしっこの臭いが漂ってくることがあった。たまらなく強い刺激臭で、ただでさえうっとうしい雨降りのなかでは堪らない臭いだった。

 ところが世の中には不思議な嗅覚の持ち主もいるようで、フランスのソムリエなどがその変わった人たちだ。
 日本でもいまでは自称ワイン通がたくさんいて、「このワインは熟したカシスの香りがする」とか、「杏に黒胡椒が加わった香りだ」とか、わかったようなことをいう人も増えているが、ソムリエたちがワインの香りを表現する言葉はもっと変わっている。

 その最たるものが、「このワインは猫のおしっこの匂いがする」というやつだ。ボルドー産のソーヴィニオン・ブランで作られたやや若い白ワインの香りをいうときによく使うようだが、「猫のおしっこの臭い」はそのワインを褒めるときの表現なのだ。(いや、褒めているんだから「猫のおしっこの“匂い”」と書くべきかな?)

 フランス猫のおしっこはどんな臭いがするのか、嗅いだことはない。だが日本の猫のものとそんなに違っているとは思えないから、ソムリエたちがあのひどい刺激臭を白ワインの香りと同種の“いい匂い”だと思っているのは間違いないだろう。これは私には理解しがたい嗅覚である。

 他にもワインの香りについては、ソムリエたちはいろいろと奇妙キテレツな表現をもっている。「濡れた犬の匂い」、「キューピーの匂い」、「腐葉土の匂い」などだ。
 「腐葉土」はあの春先の畑にただよう暖かな土の匂いかな?と思わんでもないが、「キューピー」はちょっとセメダインに似た刺激臭だという。いい匂いなのかどうか、よくわからない。「濡れた犬」なんて奴は一体どんな臭いがするのだろうか、まったく見当もつかない。一度嗅いでみたい気がしないでもないが。

 日本と欧米の文化の違いがよくいわれる。だが、それは言葉や生活習慣の違いなどからくるものだけではなく、こうした人間の五感の働きによって身の回りの物事をどう受け取り、理解しているかの違いによるところも大きいのではなかろうか。
 このワインの香りをどう感じるかの違いを知るにつれ、そんな思いがする。

(2019・05・23「なんでも書こう会」に提出したものに補筆した)

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