最上川随想
「奥の細道」の歩き旅を続け、旧羽州街道を大石田より新庄に向う。幾つかの集落を過ぎ、猿羽根(さばね)峠へ上る山道に差掛かると、四月下旬というのに路面は雪で埋り、人の足跡一つ見掛けない。明治期に当地を通ったイザベラ・バードは、「立派な道路は最上川支流の谷間に沿う。美しい木橋を渡り峠道を登る。この長い坂道は軽い泥炭質の土で、松や杉、楢の林が続く。峠からの景色はとても雄大である。」と語っている。
立派な道路の面影なぞ全て失せている。トンネルのある新道が出来たせいだろう。だが峠から見る雄大な眺めは当時と変らない。正面に葉山や月山が聳え、眼下に最上川が蛇行を重ねている。暫し休憩、雪路登行の疲れを癒す。
翌日は新庄から最上川沿いの本合海へ。芭蕉は梅雨期末にここで乗船し、最上峡を約30km下流の清川まで下り、一文と名句を残した。
左右山覆ひ茂みの中に船を下す。是に稲つみたるや、いな船といふらし。白糸の滝は青葉の隙々に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎって舟あやうし。
五月雨をあつめて早し最上川 (芭蕉)
現在は最上峡の中央部、約12㎞の間のみを川下り観光船が通っている。その船上で船頭の舟歌や解説を聞き、左右の景勝に見惚れながら芭蕉の頃の光景に想いを馳せる。
今は一二隻の観光船を見掛ける程度だが、当時の最上川は内陸盆地で取れた米を河口の酒田まで運ぶ大動脈であった。雪解けから梅雨にかけての時期は数百隻の廻米船で賑ったという。水量はたしかに滔々と豊かだが、流れはさほど早くなく、危険な個所もない。句と実景では印象が相当に違う。
芭蕉は後に初案の句にあった「涼し」を「早し」と改め、詠んだ場所も河港の大石田から最上峡へ移したとのこと。俳諧の真髄は写実にこだわらず、たとえ実在と虚構を織り交ぜても読み手の胸に響かせることなのだ。
それにつけても芭蕉の影響力は凄い。最上川は特に急流な河川ではないが、彼の名句によって日本三大急流の一つになったという。