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エッセイ・コラム

カピタンの泊まる宿、長崎屋

内藤 真理子

 長崎屋とは、鎖国の時代日本が細々と交易をしていたオランダのカピタンが、将軍に拝謁するために江戸に行った時宿泊することを許された宿の名前である。
 この場合のカピタンというのは、オランダ商館の置かれた長崎の出島にあるオランダ商館の商館長のことで、現代的に言うと、オランダ東インド会社、日本支社長であり、領事、特命全権大使も兼ねていた。
 この知識は、長崎屋の末裔である、当クラブの川口ひろ子さんに、ご両親が書かれた本をリメイクしたものを読ませて頂いて得たものである。
 読めば読むほど面白い。
 十六世紀半ば頃から南蛮船が来航し、キリスト教や、南蛮の珍しい品々、世界の情報を日本にもたらした。
 だが、徳川幕府はキリシタンの弊害を恐れるあまりに鎖国を断行する。とはいえ世界の宝物は手に入れたい。情報も欲しい。そこでキリスト教抜きで交易ができるオランダ東インド会社に白羽の矢を立て、長崎の出島に商館を置いた。
 そしてカピタンは、春になると江戸の将軍や幕府高官に貢物を持って拝礼をしたのである。
 長崎の出島から江戸までは往復で三か月を要する。いくらキリスト教抜きで交易をすると言っても、オランダはキリスト教国である。幕府は、往復の行程の中でキリスト教が広まることを警戒して、カピタンが、書記、医師、通詞のわずか四人位を伴って行くのに対し、時には百人から二百人もの奉行所の役人や賄い、荷役などの大行列を仕立ててキリスト教が拡散しないよう見張ったのである。(※ 江戸参府の費用はすべてオランダ東インド会社持ち)
 江戸に着いたら、指定旅館の長崎屋のみにその全員が泊まることになる。カピタン一行は拝謁が済むまでは長崎屋の二階で軟禁状態で過ごす。それが終わるとそこに、官医、諸大名、蘭学者たちが訪問し、カピタンや医師に教えを乞うたり西洋文化の話を聞いたり……。
 このオランダ東インド会社の将軍拝礼は、大政奉還を受けて長崎屋が瓦解する迄の218年間続き、166回の江戸参府が行われた。その間に医師としてカピタンに附いて長崎屋に宿泊した人たちから日本人の学者達は多くのことを学んだ。
 中でもケンペル(1690年~)、ツュンベリー(1775年~)、シーボルト(1823年~)は、自らも偉大な成果を残したが、日本人の学者に与えた影響も計り知れないものだった。
 江戸参府の回が進むとともに将軍は西欧文化を積極的に取り入れ、向学の士は蘭学を学ぼうと、カピタンの来るのを待ちわびた。
 あの『解体新書』を出した杉田玄白もここで学ぶ篤学の医人の一人だった。
 〝長崎屋、誇るべし!〟

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