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エッセイ・コラム

桂離宮を巡る (1)造成した人たち

藤原 道夫

 桂離宮をはじめて参観したのはおおよそ五十年前、以来この離宮の美しさに魅了されてきた。時間に余裕ができたここ二十五年の間には三十回ほど訪ね、その時々の異なった風景・風情を楽しんだ。二、三年来、印象に残ったことを書きとめておきたいと思いつつも、なかなか手がつけられないでいた。今(令和元年末)になって、ようやく気が満ちてきたのを感じる。まずこの離宮を造営した人たちについてとりまとめてみよう。

 創設者の智仁(としひと)親王は、正親町天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第六皇子として天正七年(1579)に誕生した。十歳の時に豊臣秀吉の猶子として迎えられたが、鶴松が誕生したために縁組は解消される。秀吉は親王のために八条宮家を創設した。その数年後に兄にあたる後陽成天皇が智仁親王に譲位する意向をしめしたものの、徳川家康の反対にあって実現しなかった。このような経緯が親王による別業(別荘)の造営につながってゆく。
 智仁親王は日本の古典文学にしたしみ、書、絵画、茶道などにも造詣がふかかった。月の名所としてしられ、また『源氏物語』にゆかりのある桂の地約七万㎡が八条宮家の所領となったのをきっかけに、親王はその地に別業の造営をおもいたつ。この地は二代将軍秀忠から知行が確約され、王朝の雅に裏打ちされた親王の美意識が発揮される条件がととのった。作庭に小堀遠州がかかわったという説もあるが、親王自らが設営したとする説が有力だ。1624年に別業が完成、親王はそこを「瓜畑のかろき茶屋」と称し、知り合いの著名人たちを招待した。そのなかのひとり相国寺長老は「天下の絶景也」と称賛した。
 その五年後に智仁親王逝去、子息智忠(としただ)親王が十歳で八条宮家を継いだ。そのころから庭園が荒れはじめたようだ。寛永十九年(1642)宮家に加賀藩主前田利常の娘富姫(ふうひめ)が輿入れし、また幕府からの援助もあって財政基盤がととのい、庭園の改修工事と御殿の新築がすすめられる。
 別業の完成に大きな影響力を持ったのは後水尾上皇だった。上皇の皇子穏仁(やすひと)親王が三代目当主になると、上皇の御幸にそなえて御幸門(現在の形は後代のもの)、御幸道、書院や御殿の内装などがととのえられた。上皇は二度御幸し、大いに楽しんだことだろう。また土地柄も風光もことなる修学院の地に上皇自ら造営した山荘(後の修学院離宮)をしあげるに際して、おおいに参考としたにちがいない。

 八条宮は後に京極宮と改称され、さらに桂宮となった。宮家は明治十四年に途絶え、桂の別業は宮内庁の所管となり、桂離宮とよばれるようになる。明治時代に修理がおこなわれ、さらに昭和五十一年から六年かけて創建後はじめて建造物の根本的な修理がおこなわれた。その後茶屋なども修理され、現在にいたっている。

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