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エッセイ・コラム

ブッダ・ゴータマの遺骨

浜田 道雄

 1898年ネパールとの国境に近い北インド、ピプラーワーで古墳を調査していたイギリスの駐在官ウィリアム・ペッペは一つの骨壷を発掘した。その蓋には西暦前5世紀ごろのブラーフミー文字で、「シャカ族の仏・世尊の遺骨であって、名誉ある兄弟姉妹妻子どもの(奉祀せるもの)」と彫られていた。

 仏典によれば、クシナガラで亡くなったブッダ・ゴータマはその地で荼毘に付され、遺骨は八つの部族が分けあって、それぞれの国で祀ったという。ピプラーワーの遺骨はその発掘の状況と骨壷の銘文から、このときシャカ族に分けられた遺骨だと今日では考えられている。
 世界にはスリランカの仏歯寺やミャンマーのシュウェダゴン・パゴダのようにブッダの遺骨が祀られているところはある。だが、その遺骨はいずれも伝説に基づいているもので、真に「ブッダ・ゴータマの遺骨」(仏舎利)といえるのは、このピプラーワーで発見されたものだけではなかろうか。

 インド政庁は、骨壺はコルカタの博物館に納めたが、遺骨は仏教徒にとってブッダの遺徳を偲ぶ最大の聖遺物であるとして、シャム国王ラーマ5世に贈った。王はこの遺骨をバンコクのワット・サーケーの仏塔に祀るとともに、一部を同じ仏教徒であるスリランカとミャンマーの僧団に贈った。
 遺骨の一部は、また日本にもある。当時のシャム駐在弁理公使稲垣満次郎がラーマ5世に懇請し、贈与を受けたのである。この遺骨は日本の仏教界が全宗派共同で奉祀することとし、名古屋市東山に覚王山日暹寺(今日は日泰寺という)を建立して、境内の奉安塔に納めた。

 昨年はじめ、久しぶりに日泰寺を訪れた。名古屋にいた30年前には寺の周りはまだ郊外の雰囲気を残すところだったが、いまは奉安塔と本堂の間に県道30号線が走り、周囲は高層の集合住宅が立ち並んで、昔の面影はない。
 奉安塔もまた柵で囲われ、さらに山門が建てられたから、塔はその陰となって、私たちがその姿さえ見ることのできない近づき難い存在になっていた。

 バンコクのワット・サーケーはもとよりミャンマーやスリランカの仏舎利を納めた仏塔では、多くの人々が自由に集い、祈り、そして時計回りに回りながらブッダの遺徳を忍んでいる。
 だが、ラーマ5世が「日本の仏教徒への贈り物」としたブッダ・ゴータマの遺骨を祀った日本の塔は仏教徒から切り離され、ただ僧侶のみが奉祀できる秘仏のような“宝物”になっていた。

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