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エッセイ・コラム

新型ウイルスは貞観時代にも発生した

斉藤 征雄

 貞観4年(862)の暮から、京の都は「咳逆(がいぎゃく)病」と呼ばれる悪性の風邪が大流行し畿内畿外に及んだ。流行は翌年にピークに達し、翌々年まで足かけ3年に亘って続いた。被害は民衆だけでなく貴族皇族にまで及び、多くの人びとの命を奪った。薬もない当時のことだからただ神仏に祈るしかなかったが、猛威は祈りの中心にいた比叡山の天台座主円仁をも襲って死に至らしめた。人びとは病の元は渤海の商人が運んできたと噂した。

 時の為政者は清和天皇の実質的に摂政でもある太政大臣藤原良房であった。良房の父は薬子の変(810)を契機に廟堂の中枢に昇り、以後藤原北家に繁栄をもたらした冬嗣である。
 父に似て良房も権力志向が強く、陰謀によって伴健岑、橘逸勢を流罪にしてのしあがった(842承和の変)といわれる。また娘を文徳天皇の後宮に入れ、生後8ヵ月の惟仁親王を強引に皇太子に押し込んだ。文徳天皇にはすでに皇子があり特に第一皇子の惟喬親王はすぐれた器量を期待されていたので良房の横暴は世上の反感を買ったことは言うまでもない。文徳天皇崩御ののち惟仁親王は9歳で即位して清和天皇となり、良房は実質的に摂政となったのだった(藤原氏摂関政治の始まり)。

 貞観6年(864)その良房が咳逆病に罹り重篤となった。それを機に政情不安になったのは当然の成り行きだったかもしれない。皇族から臣籍降下した左大臣源信が反逆を企てているとの噂が立ち、大納言伴善男がそれに乗じて源信を追い落とそうとしたのである。
 良房は強運にも奇跡的に回復して源信を擁護したが、その直後突然応天門が炎上するという事件が起こった。伴善男はそれを源信の仕業と主張したが、逆に密告により放火犯は善男らとされ善男は伊豆へ流された(866応天門の変)。事件の真相は闇の中にあるが、歴史学者によれば、この事件も良房の陰謀との説が濃厚である。事実この事件を契機に名門大伴氏は没落し、咳逆病から生きかえった良房は正式の摂政になって、その権力が不動のものとなったのである。そのためには手段を選ばなかった良房の政治を物語る事件であった。

 上記は『日本三大実録』の記事であるが、貞観時代のこの時期(864)、富士山が大噴火を起こして現在の青木ヶ原の溶岩帯が形成されたことや、貞観11年(869)には陸奥の国でM8.3の大地震と巨大津波が発生して多くの人命が失われたことも記録されている。

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