「蕨野行」を読み
村田喜代子著の小説「蕨野行」を読み、現在の日本社会が直面している高齢化問題を改めて考える機会を得た。本書末尾で日本農書全集を参考資料として示しているので、実話伝説に基づく話なのであろう。深沢七郎の名著「楢山節考」と同類の棄老物語であるが、私はそれを読んだ時以上のインパクトを受けた。
物語は特段の説明もなく、姑と若い嫁があたかも実際に交わし合う手紙文のスタイルで終始する。村の約定により棄老地区「蕨野」へ入る六十歳の姑と、彼女を慕う嫁は身の回りのことや互いの心のうちを語り合う。
約定は若者の手助けなしに、厳しい環境の林野でも一年間自活できる老人のみを残すという「還暦の関所」である。全村民を対象とし、姑と同じ齢の同行の仲間九人はつぎつぎと亡くなっていく。皆が飢えながらも里にいる子や孫を思いやる気持ちに私は強い共感を覚えた。嫁が語る飢饉時に生んだ子を間引くか否かを迷う母親の葛藤も心に残る。
先日の「タイムリミット」というテレビ番組で、七十、八十歳代の生活スタイルを取り上げていた。そのなかで「自分の子に介護で迷惑を掛けたくない」、「動けるうちは夫婦二人か、独りで自由に暮らしたい」という意見が多かった。同感するが、これも年金などで高齢者の生活が保障されている今の社会のお蔭である。「蕨野行」を読むにつれ、現在の日本に生れた我が身の幸運につくづく感謝する。
小説の背景は江戸末期の東北地方と想定されるが、同じような社会環境は敗戦後の日本にも有ったし、今でも世界各地で見受けられる。だが現在の豊かな日本社会の基盤は脆弱である。それを忘れ、「周囲の人へ迷惑を掛けなければ」といった生き方は如何なものだろうかと考え直す。
姑が山中で、「蕨野」と近接する温暖な山野へ若い時に失踪し生き延びていた妹と出会うシーンがある。妹は野生の食物の乏しい「蕨野」から、自分の居る所へ一緒に逃げ出そうと強く誘う。しかし姑は、「おれだちは人の世に棲みてこの齢を経るなり」と頑なに断り、村の約定で決められた「蕨野」に住み続ける。その言葉はソクラテスの箴言「悪法もまた法なり」にも通じる。人類存続のためには、一人ひとりが社会的動物としての強い自覚と覚悟を持たねばならないことを教える。
人類は仲間同士で集まり、協働し、都市や国家を築き、文明を発展してきた。新型コロナウイルスの猛威は都市に人が集まり過ぎた現代文明への厳しい天意であろう。ウイルスによる高齢者の高死亡率は現代人の過剰な依存心、自活力の乏しさへの警告かもしれない。小説「蕨野行」における作者の意図も新型コロナウイルスの警告と同じだったのでは、と連日のテレビ報道を見ながら考える次第である。
(注)本書は2020年4月の「何でも読もう会」の題材であったが、新型コロナウイルスのために延期されているので、思いの新たなうちにエッセイとしてまとめた。