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エッセイ・コラム

山荘での或る一日

池田 隆

 薄明りに目を覚まし、枕元の時計を見ると五時をすこし回ったところである。しばし窓越しに山の端へ沈みいく大きな月に見惚れるが、また布団を被り直し、身の周りで起こった最近の出来事を思い浮かべる。
 昨年の十一月まで六年間過ごした市ヶ谷の高層マンションでの生活は多彩だった。名所旧跡や著名人の旧居跡を訪ねては都心の隅々まで探索し、様々な博物館や劇場を巡り、銀座や日本橋界隈で旨いランチを食べ、皇居周辺の景観を眺めながら散歩し、連日都心を徘徊放浪していた。
 昨夜のテレビでは、新型コロナウイルスの影響で千鳥ヶ淵や上野公園の桜は満開なのに人影は疎ら、あの雷門も歌舞伎町も閑散としていた。もし市ヶ谷に住み続けていたならば、外出自粛で散歩はおろか、近くのスーパーへ買物に出掛けるにも、エレベーターに乗らねばならず、恐る恐る行先のボタンを押し、狭い箱のなかで長く息を止めていたことだろう。
 引越しの理由はオリンピック景気で家賃が急騰したせいである。憤慨もしたが、何が幸いするか分らない。今は蓼科の山荘に長期滞在し、毎日悠々と高原散歩を楽しんでいる。
 そもそもこの山荘は晴耕雨読の晩年を過ごしたく、二十年前に退職金で建てたものである。自ら考案したエコロジー技術の実証と大災害時などの家族の緊急避難拠点の意味合いを持たせ、本体工事以外の内装や付帯工事は自ら行った。偶然にも当初の意図の一つが生きる時が到来したようだ。
(ウツラウツラと半睡)
 気がつくと六時過ぎ、慌ててとび起きる。八ヶ岳連峰の南西側の中腹に位置する此処では、日の出は西に遠く見える木曽御嶽山の白い頂が赤く染まるモルゲンロートから始まる。日の照らされる範囲は徐々に手前の山や森に広がり、わが山荘まで達するのは七時前である。残念なことに、今朝はそのモルゲンロートを見逃してしまった。
 六時二十五分からのテレビ体操で活動開始。四月のメンバー更新でベテランの五日市さんが辞めたようだ。長い間ありがとう。七時頃より、私の役割であり、楽しみでもある朝食つくりを始める。冷蔵庫を開けて素材を確かめ、献立を思案する。昨日はスペイン風オムレツにしたので、今朝はミネストローネスープにしよう。ベーコンやジャガイモ、キャベツを刻み始める。妻はその間に掃除洗濯(寝坊しているのではない。妻の名誉のために特記)。
 朝食後は今月より始まった朝ドラ、「エール」を見る。古関裕而に扮する子役が上手で可愛らしい。今朝は三浦環も登場する。先々の展開を楽しみにしよう。朝のルーチンを終え、PCを開く。企業OBペンクラブ「会員談話室」でリレー随筆のバトンが回ってきた。サテサテ、何を題材にしようか。
 十時過ぎより散歩に出る。玄関ドア―を開けると、近くに住み着いているリスが驚いてピョンピョンと跳ね、草むらに隠れる。標高千四百メートルのこの辺りでは、四月に入っても周囲の白樺や落葉松の林は冬枯れのままである。秋に威勢良く、人の背ほども伸びた路辺のススキが雪の重みで根元より折れ、筵を敷きつめたように横たわっている。
 緑色といえば、林のなかに散在する赤松や樅などの常緑樹と地面を覆う斑入りの熊笹ぐらいで、未だ色彩に乏しい風景だ。新緑の季節はまだ一月先だろう。しかし冬枯れの樹々を透かして見える白い山々は青空をバックに清々しく雄大である。この季節でなければ見られない。
 プロムナードに沿って進むと、眺望も南から西、さらに北へと移る。北岳を覗かせた鋭く尖った甲斐駒ヶ岳、ギザギザの鋸山の稜線から頭を出す南アルプスの主峰仙丈ケ岳、スキー場が白い帯を垂らしたように見える入笠山、諏訪大社のご神体である守屋山の上に連なる中央アルプスの峰々、独立峰の御嶽山と乗鞍岳が間をあけ、穂高や槍ヶ岳の北アルプスの山脈が霧ヶ峰と車山の尾根に隠れるまで続く。
 帰路につくと、眼前に八ヶ岳連峰が大きく待ち構えている。主峰赤岳を背後に隠し、入道の頭のように猛々しい阿弥陀岳が左右に権現岳と横岳を従えて睨みつけている。十数年前になるが、山荘より十数時間歩き続けて、あの頂上まで単独行で往復した。今はもう眺めるだけになった。
 この辺りでは鹿の群れによく出くわす。かなり近づくまで小さな目でジイーと見つめているので、こちらが気恥ずかしくなる。残念ながら今日は一匹も見掛けない。
 空高く旋回していた鷹が数十メートル高さの樹の突端に止まり、周囲を睥睨する。紋白蝶が舞い始める。鶯のぎこちない一声が聞こえたが、後は続かず、また静寂がつづく。鶯や郭公の合唱が響きわたる新緑の初夏が待ち遠しい。
 一時間半をかけて、約八千歩の周遊を終える。途中で出会ったのは一人だけ、行き違った車も二三台、これなら不要不急の外出だが構わないだろう。
 餅を焼き、海苔を巻き、野沢菜を添えた簡単な昼食を済ませ、陽のさすソファーで午睡の一時間。これも至福の時である。この冬から春にかけては例年になく長逗留しており、薪がひっ迫してきた。だが薪割りの腕前が衰え、体力も落ちて長く続けられない。新たに七万円で購入した電動油圧式の薪割り機の初使いを始める。その威力が凄い、三十センチ以上もある太い丸太を簡単に砕く。二時間ほどの作業で薪の大きな山が積み上がる。
 時節柄、近くの温泉へ行くのも控え、自宅の風呂で汗と切粉を流す。風呂上りに、夕食の準備に取りかかる妻と夕焼けを愛でながら、私は沖漬けのホタルイカを肴にビールで喉を潤す。
 早朝淡く消え入るように沈んでいった月と同じ方角に太陽も沈むが、こちらは赤く輝き華々しい。山の端に隠れるまでは眩しくて真面に見ることも出来ない。しかし沈んだ後の十数分の空の色のグラデュエーションは時間を忘れさせる。天頂付近の濃紺の空は地平線近くで真っ赤に染まり、山の稜線と冬枯れの樹々がそこに黒影の紋様をつける。その色合いが時々刻々と明度を下げ、やがて真っ黒な夜の帳を下ろす。
 夕食後はストーブに火をつけ、リクライニングシートに身を沈め、音楽CDをかけ、スコッチをチビリチビリ。炎の揺らぎが人を癒す。これこそ山荘生活の醍醐味である。一緒に語り合う友人がいれば、真に最高なのだが。来月には関西在住の高校時代からの親友が二人来てくれることになっているが、今回の騒動でどうなることやら。  妻がテレビのニュースを点ける。首相が非常事態宣言を発令し、「新型コロナウイルスとの「戦い」だ、それを撲滅させてみせる」と張り切っている。先日、生物学者の福岡伸一氏が朝日新聞に次のような趣旨の寄稿をしていた。「ウイルスは代謝も呼吸も自己破壊もしないが、自己複製を続ける生物と無生物の中間体である。ウイルスは高等生物の遺伝子の一部が外部に飛び出して発生したもので、多種の生物間を水平的に行き来して高等生物の進化を可能にしている。それは私たち生命体の一部であり、決して根絶したり、撲滅したりすることは出来ない。云々」
「山川草木悉皆成仏」ではないが、すこし人里離れた山中で生活すると、生物学者の言も感覚的に頭に入る。「人間ファースト!」と唱える信奉者や都会人が生物界全体に大きな被害を与え始めている。自然界(天、神)が彼らに狙いを定め、その中から生物学的に不用になった老人を摘み出せと、ウイルスに命じているのかも知れない。もし我が身が摘ままれたら、それも天意と受け止めよう。
 夜も更けてきた。気分転換に冷気漂うデッキに出て、上を見上げると満天の星、気宇壮大な気分となり室内に戻る。
 さて、谷村新司のCD「昴」でもかけて、寝るとするか。「おやすみなさい」

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