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エッセイ・コラム

エキソード3

八木 信男

 あれは急行アルプスに乗ったから新宿駅だったと思う。
 8月の日曜の夜、ホームに停車していた急行アルプスはほとんど空席だった。私は適当に選んだ車両の真ん中の座席に一人陣取った。
 鬼怒川温泉への出張が済んで、次は長野の出張へ行く途中だった。この出張は最初からついてなかった。新大阪から乗った新幹線が豪雨で遅れ、延着が2時間を超えたとたんに車内放送があった。
「皆様、うれしいお知らせです。ただいま延着時間が2時間を超えました。特急料金の払い戻しを行います・・・」
 やった、これで飲み代が増えると思った。しかし、そのアナウンスがあったとたん、スーツ姿の男性数名が小走りで車掌室へ向かった。何が起こったのか私にはわからなかったが、しばらくすると再び放送が入った。
「ただいま車掌が不適切なアナウンスをしました。お詫び申し上げます・・・」
 なるほど、仕事で時間を大切にしている者ならば怒るはずだ。
 東京駅で払い戻しを受け、上野へ向かった。ここで東武鉄道の特急を予約していることに気づいた。東武の窓口では、乗り遅れた特急券は無効になってしまった。新幹線の遅れは他人事ではなかったのだ。おまけに鬼怒川温泉の出張では楽しいことなどまったくなかった。
 そんなことを思い出しながら、急行アルプスの車両で缶ビールを飲んでいると、1人の若い女性が私の前に立ち、「ここいいですか」と聞いた。少し年下で、清楚な感じの乙女の申し出を断るはずがない。しかし、ほとんど空いている車両でよりによって男性の前にすわろうというのか。
「どうして私の前に座ったのですか?」
 それは最後にどちらかが降りる直前に聞こうと思った。
 彼女は大手銀行Mの行員でこの夜行で長野へ帰省するのだという。
 急行アルプスは新宿を発車し、彼女との会話は、大阪や長野の話で話題はつきなかった。
 携帯電話もなかった時代、互いに気になれば住所か電話番号を聞いてもよかったのだが、どうしてなのか覚えていない。お互いに相手の名前も連絡先も聞かなかった。彼女が降りる直前に、どうして誰もいない車両の中で、この座席を選んだのか聞いてみた。彼女の答えはこうだった。
「切符を買うときに、あなたが大阪の人だとわかったので」
 大阪の人?どうして?と思ったが、彼女は続けていった。
「大阪の人って乱暴そうでしょ?だから何かあったら守ってもらえると思って」
 私は用心棒として選ばれたのだった。
 若いころの少し苦っぽい思い出である。

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