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エッセイ・コラム

『忘れえぬ人々』~国木田独歩の美学は俳句の美に通じる~

斉藤 征雄

 さしたる動機があったわけではないが何気なく国木田独歩の『忘れえぬ人々』を読んでみた。独歩の作品は、日本的自然の美しさへの感動をつづった『武蔵野』以来である。
 一般に「忘れえぬ人々」と言えば、親兄弟、友人知人や恩師などを思い浮かべるが、独歩にとってはそれらの人びとは「忘れてかなうまじき人」であって、彼の言う「忘れえぬ人々」は全く別のものである。

 〇瀬戸内を船で故郷に帰るとき、霞たなびく春の景色の中に小さな島の磯で何かを漁する人の姿を見た。そして船が進むにつれて、その人影が黒い点のようになって消えていった。これが、独歩の「忘れえぬ人々」の一人である。
 〇九州横断の旅をして、阿蘇の噴火口まで登りその帰途のことだった。麓の村に着くと、すでに日は暮れかかり、西の空に見える阿蘇の峰は蒼味がかった光を放ち、すさまじい美しさであった。そこに屈強な若者が馬子唄を唄いながらあらわれて目の前を通り過ぎて行った。そのたくましい身体の黒い輪郭が「忘れえぬ人々」の一人である。
 〇四国のとある港町でのこと、町は魚市が立って賑わっていた。その雑踏から少し離れたところで、一人の琵琶僧が琵琶を奏していた。咽ぶような糸の音、沈んで濁った謡う声は、人々の心の底の調べを奏でているようだった。この琵琶の音とせわしそうな巷の喧騒の光景は、調和しないようでありながら、どこかに深い約束があるように感じられた。この琵琶僧も「忘れえぬ人々」の一人である。

 これらの人々が、独歩にとって何故忘れることができないのか。彼は、生きることの孤独を感じるとき、人なつかしさがこみあげてきて、これらの人々が周囲の光景と一体となっていたことが懐い出されるからであると述懐する。その時ほど心に平穏を感じ、自由を感じ、俗念が消えて、すべての物に対して深い同情の念を感ずることはないという。

 この「忘れえぬ人々」という小説は短いながら難解で、私にはその意味が十分には理解できない。しかし何とはなく次のような感想だけは持った。
 独歩の「忘れえぬ人々」はいずれも、自然と同化して一体となり自然の風景の中に溶け込んでいる人々である。そして風景の一部でありながらその人が生きているという確かさを持っていて、そのことが人の美しさを醸し出している。生きることの孤独を感じた時に、こうした人々を思い出すことで、生きることの喜びを知ることができる、と独歩は言っているのではないかと思う。
 そのように考えたらふと、俳句は、叙景(写生)と抒情の融合したものと言われるのを思い出した。独歩の美学は俳句の美に通じるものがあるのではないだろうかと思った。

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