黒川検事長問題で思い起こすこと~大津事件と三権分立、そして賭博~
黒川検事長の一連の問題で思い起こすのは、大津事件とその裁判のことだ。大津事件は明治24年(1891)5月11日、来日中のロシア帝国ニコライ皇太子を大津で警備に当たっていた警察官・津田三蔵が斬りつけ負傷を負わせたという事件である。大国ロシアの報復を恐れた日本は、国中が大騒ぎとなった〈参考〉。
仰天した政府は、犯人・津田に「大逆罪」(刑法116条)を適用して死刑となるよう働きかけた。
5月15日の京都での「御前会議」では、外務大臣青木周蔵、元老伊藤博文らは極刑論を唱えた。それに対し検事総長の三好退蔵は通常謀殺論を主張した。しかし、三好の意見に同調するものはおらず、極刑論に決まり、陛下に奏上した。
三好は近代法を学ぶためヨーロッパに数度行っており、法体系や法知識に詳しく、事前に児島惟謙大審院長と連絡を取り、山田顕義司法大臣に法の国際的常識(罪刑法定主義)を進言していた。
一般的には児島惟謙と三好退蔵は意見が対立したとされているが、三好は先の奏上に基づき已む無く職務を遂行したものである。
大津事件の一年前に、大日本帝国憲法が施行され、近代国家として三権分立が歩み始めていた。
既に5月14日、大津地方裁判所長・千葉貞幹から「津田の犯罪は、普通法律によるものとして、すでに予審に着手した」との報告を受けた児島大審院長は「法律の解釈、至当なり。他の干渉を顧みず、予審を進行せよ」との電文を送っている。
18日、松方正義総理は児島に対し、内閣の意向を受け入れるよう説得したが、児島は「当該裁判に自分は名を連ねていない」と回答した。
5月25日、大津地方裁判所において大審院の法廷が開かれ、裁判官7名は、刑法116条は外国の皇族への危害は構成要件から外れており、大逆罪の類推適用は認めず、謀殺未遂事件として終身刑を宣告した。
なお、児島大審院長は花札賭博を好んでおり、大津事件の翌年に弾劾され、不起訴にはなったものの、大審院を辞職した(司法官弄花事件)。
このことは法曹界では知らぬ者はいないだけに、黒川検事長も法の番人として、これ以上、安倍の番人にはなりたくないと、自ら文春にリークしたのではないかと考えるのは筆者だけだろうか。
参考:国民をも巻き込んだ例
- 5月20日、京都府庁前で、「囚人に代わり、自らの死をもってロシア皇太子に謝罪したい」との嘆願書を投じ、畠山勇子(日本橋の魚問屋の元従業員)が自決した(27歳)。国難を我がこととして案じ、一命をもって役立とうとした明治の女性がいた。
- 国民からニコライ皇太子への見舞い電報は一万通を超えていた。