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エッセイ・コラム

新聞連載『記者清六の戦争』を読んで

内藤 真理子

 戦争の話を新聞で見ると、ああもう8月か、と思う。
 M新聞では『記者清六の戦争』という連載が7月の半ばから始まった。
 筆者は伊藤絵理子記者(2005年М新聞社に入社)で、「昔、同新聞社にいてフィリピンで戦死した親戚がいる」と父親から聞いたそうだ。その親戚が、表題の(伊藤)清六である。古い資料の中の、52年に発行された物故社員の追悼冊子『東西南北』に彼の名前を見つけ、又、おびただしい資料の中から彼が書いた記事を見つけ、彼の記者人生に一気に引き込まれた、とあった。
 私もつい引き込まれて、一気に読んでしまったが、そこには新聞記者とはこういうものなのだという新聞記者魂が書かれていた。

 清六は、絵理子の曽祖父伊藤清一の弟で、旧宇都宮高等農林学校(現・宇都宮大学農学部)を卒業後、毎日新聞の前身東京日日新聞宇都宮支局員となる。
 彼女は、この伊藤清六の足跡を、郷里の岩手、戦禍のあった上海、南京、そしてマニラとたどり、残されている資料を手掛かりに検証しながら、一新聞記者清六のかかわった戦争を現在の新聞記者の目で紐解いている。

 1937年7月7日、日中両軍が武力衝突をした〈盧溝橋事件〉を機に、日中戦争がはじまった。戦線は上海に飛び火。日本軍は首都南京へなだれ込み、捕虜や一般市民を殺害するなどした〈南京事件〉が起きた。
 清六は、同10月23日東京駅を出発して戦地に行った。故郷に残された信書から、従軍記者として喜び勇んで行ったことが伺える。……記者としては、当然だろう。
 新聞紙面の「紙上対面」の記事の話― 郷里に残された家族は、新聞を通じて夫や兄弟たちの消息を知る。地方版には郷土部隊の活躍ぶりや、戦死した兵士の最後の様子や負傷者名など写真付きで報じている。そしてそれを読んだ家族の反応も掲載した。このような記事は、清六ら特派員が発信した。
 これで新聞の売れ行きがグンと上がったという。
「上海戦線にて伊藤(清)本社特派員発」という署名付き記事がある。
『一軒の建物で肉弾戦、十余時間対陣、ついに殲滅。手榴弾が飛ぶ、部屋中に炸裂し床は鮮血にまみれあまりの凄惨さに敵軍も最後と観念したか続々武器を捨てて降伏、階段は血の河、敵の死体が部屋中に転がっている』
 この凄惨な現場で清六が書いたものだ。当時の紙面には、殲滅、決死隊、皇軍の勝利、万歳、の言葉が頻繁に見られ、気が重くなると、現在の記者、絵理子は書いている。
 特派員は軍と行動をともにし、いわば苦楽を共にしながら記事を書いている「軍の応援団」に近い感覚になるのも当然のことだろう。南京陥落で特派員は祝杯を挙げ、これで戦争は終わると思っていたようだ。笑顔の集合写真が残っている。
 現地では日本兵による、捕虜や民間人の殺害、強姦や略奪が相次いでいた。所謂「南京事件」で、外国人記者たちが告発して世界中に知れ渡った。
 集合写真の笑顔と南京の惨状。その落差があまりにも大きい、と絵理子記す。
 清六の記事―「白旗揚げて降伏、捕虜何と千五百名」。捕虜のその後のことは書かれていない。戦闘詳報には、50人ずつ連れ出して刺殺したとある。記者が知らなかったとは考えにくい。
 捕虜の殺害は国際法違反だが「捕虜ハ全員殺スベシ」との命令を示す公的記録もある。だが、捕虜殺害は記事には触れていなかった。12日の出来事が24日付けで掲載されているのは検閲があってのことか?
 1938年1月、清六帰国。新聞社は特派員を次々帰国させた。帰国後は各地で、戦況報告の講演をする。その後、44年にフィリピンに出向するまでの6年間は、彼は専門の農政分野で筆を振るった。

 この連載記事は、絵理子が、清六の最後の地マニラに赴き取材する所から始まっている。
 1945年、終戦の年、マニラ新聞社に出向していた清六は、戦況が悪化するとマニラを脱出して日本軍と行動を共にし、兵士のための陣中新聞を作った。ガリ版刷りで、清六をはじめとする記者等10人、爆撃を受けながら3ヶ月間毎日発行した。新聞には海外の最新ニュースや評論、食料を食いつなぐ方法のような実用的なもの、連載小説や兵士による俳句の投稿、等々が掲載され、情報と娯楽に飢えた兵士が先を争って回覧したそうだ。
 陣地が陥落してからは、1ヶ月あまりに及ぶ逃避行の末、45年6月30日、清六は山中のヤシ林で餓死した。新聞発行に携わったほぼ全員が飢餓や疫病により死亡するという悲惨な結末だった。
 敵味方で戦った人、銃後を守った人、それを記録した人、それぞれの戦争がそこにあったのだ。伊藤絵理子記者の連載は具体的でわかりやすく心に響いた。

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