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エッセイ・コラム

『わたしの芭蕉』から (3)何で年よる雲に鳥

藤原 道夫

 暑い日々が続くなか、当初よりペースが落ちているものの、気が向くままに『わたしの芭蕉』(加賀乙彦)を読み続けた。いよいよ終わりにさしかかり、「旅と病と終焉」の章に入る。
 元禄6年(1693)50歳になった芭蕉は、7月中旬から8月中旬にかけて体調を崩し、庵を閉じて人と面会するのを避けて過ごした。持病があったようだが病名は特定されていない。翌元禄7年の5月11日、江戸を発って故郷の伊賀に向かった。門人を含めて多くの人達が見送ったであろう。その折
     麦の穂を便りにつかむ別れかな
と詠んでいる。これは留別吟(るべつぎん)といわれ「ここにもはや生きて戻ることはないだろう」と確信していた芭蕉の心の内を表した句といわれている。
 芭蕉は7月上旬に膳所(ぜぜ)にある幻住庵(げんじゅうあん 元禄3年に3ヶ月半ほど住んだ)に寄り、中旬には故郷で墓参りをしている。9月上旬に奈良を見物し、大阪に向かう。 数々の名句を残したこの旅路を読みすすめるうちに、次の一句に出会った。
     此の秋は何で年よる雲に鳥
 この句を読むのは初めてではないはずだが、時季のせいもあったのだろう、ドキッとした。この夏は真夏日・熱帯夜が続き、おまけに新型コロナウィルスの新たな感染者が一向に減る様子がなく、外に出るのもままならない日々を過ごしながら年々暑さがこたえる、とぼやいていたところだった。「何で年よる」というストレートな問いかけがぐさりと身に響いたのだ。
 芭蕉がこの句を詠んだのが9月26日、その前から夕方になると熱が出て悪寒や頭痛に悩まされていた。この症状は細菌かウィルスによる感染症の可能性を示唆するが、特定はできない。重病感(何か重い病気に罹っている感覚)もあっただろう、体力の衰えを身にしみて感じたに相違ない。「何で年よる」という問いかけは自分自身に対してであるのと同時に、分かるものなら教えてもらいたいものだと他人に問う気持ちも含むであろう。だが格段に医学が発達した現代でもこれに答えるのは難しい。
 芭蕉は句の下五を詠むのに苦心したようだ。結局たまたま目にした「雲に鳥」におさめた。読んでみると、重い問いの後の言葉としては軽く感じられる。加賀さんは鳥が弱々しく寂しげで芭蕉自身の孤独な姿を投影しているようだとコメントし、白い雲に死体を連想している。どうもピンとこない。このことについて俳句に詳しく、読書家でとりわけ推理小説が好きな友人に訊ねてみた。あれこれ話し合っていくうちに、 次のようなことが浮かび上がってきた。
 芭蕉は深川に庵を結んで以降旅に明け暮れる生涯を送った。旅する上で天気は重要な問題だ、悪天の際には備えが必要になる。伊賀生まれの彼は、忍者ではないにしろ、雲の形や生じ方から天気を予報する力を身につけていたことはたやすく想像できる。訪ねる土地特有の気象に関する知識を学びとり、実地に役立てていたにちがいない。雲は彼の脳の中に納まっていた。また、人里や山道を歩きながら四季折々さまざまな鳥を身近に見て、それらの鳴き声を耳にしただろう。実際ホトトギスを詠んだ句は多い。飛んでいる鳥はみな活発だ、ある範囲内で自由に移動する。芭蕉にとって鳥はわが友だったかもしれない。
 病状が次第に悪化していく中で、芭蕉は10月8日深更に
     旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
の一句を口述筆記させた。その後いくつかの遺書を認め、あるいは口述筆記させ、10月12日に息をひきとった。
「何で年よる雲に鳥」の句は亡くなる15、6日前に詠まれたことになる。未だ意識がはっきりしており、死を予感しつつ「雲に鳥」を眺めながら旅に明け暮れた後半生を回顧したのではあるまいか。この句は芭蕉の白鳥の歌のように思えてくる。

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