『草枕』(全巻)
最初に、時代背景と登場人物について、発表者なりの解釈を提示、その解釈に従って、主人公「余」とヒロイン那美の関係、「余」が那美に抱く感情、何故那美はあのようなふるまいをするのか、ラストシーンで那美の顔に「憐れ」が浮かんだのは何故か、について述べた。
発表者は、那美の日ごろの振舞は那美の結婚生活に原因ありとし、元亭主の「野武士」の境遇、彼がこれから赴くという1905年春の満州の状況(まだ日露戦争は終わっていない)などから、最後の別れに至って突然、本当にその満州に行く元亭主に誠を感じ、「憐れ」の表情に至ったと主張したのであるが、あのラスト・シーンは汽車の扱いからして物語として典型的な別れの描写で、単にその一風景なのだという解釈もあり、必ずしも賛同は得られなかった。
また、英訳者アラン・ターニーが“compassion”と訳している事から、「憐れ」の定義の解釈に議論百出、クリスチャンの会員から漱石の「憐れ」論に真っ向から反対する意見があった。
「草枕」のもう一つのキーワード「非人情」についてはあまり深い議論は出来なかったが、「情」を否定する意味の「非人情」ではなく、世の常識にとらわれない、という意味である、ということでは一致した。ここでもターニーの英訳、“common sense has been removed”は判りやすいが、それが「非人情」の全てか、という意見が出た。
近代日本文学の嚆矢ともいえる「草枕」。その使われている言葉や、会話のリズムの心地良さにこそ魅力がある、という意見。発表者は、知の巨人漱石が「余」を介して披歴する漢籍や古今東西の文学哲学の知識には辟易する、という意見だったのであるが、それにはそこにこそ魅力があるのだという反論が直ちに多数発せられた。
100年以上に亘るベストセラー「草枕」は、ストーリー性が希薄な謎多い小説なだけに、どこがおもしろいのか全く分からない、という意見から、個々の事象の表現方法からしてそれまでの日本文学に無かったもので、ここで創りだされた日本語も多数ある、語り尽くせない魅力がある、という意見まで、読み人それぞれの「草枕」への思いが語られた2時間であった。
もし、いつか再び「草枕」を取り上げる事があったら、その日本語の使い方に焦点を当てて白熱の議論をしたいと思う。
また、カナダ人ピアニスト、グレン・グールドは死の床に聖書と「草枕」(ターニー訳)を置いていたという。“common sense has been removed”のグールドと「草枕」の世界についてもと取り上げてみたいテーマである。