『手巾』(全編)
(本の紹介)
1916/10 作者24歳の時の作品。
以下、ウイキペディアよりあらすじを拝借する。
大学教授の長谷川謹造は、窓際でストリンドベリの作劇の本を読みながら、庭の岐阜提灯を度々眺めつつ、日本古来の武士道というものを想う。そこへ、ある婦人が長谷川の元を訪れ、彼の元に出入りしていた学生が、闘病もむなしく亡くなったことを告げた。息子の死を語っているにもかかわらず、柔和な微笑みを絶やさない婦人だが、長谷川はふとした事で、夫人の手元のハンカチが激しく震えていることに気が付くのだった。夜、長谷川はこの話を妻に語りながら、この婦人は「日本の女の武士道だ」と激賞した。満足げな長谷川だったが、その後、ふと開いたストリンドベリの一節に目が留まる。「顔は微笑んでいながら、手ではハンカチを二つに裂く。これは二重の演技で、私はそれを臭味と名づける」――。
(討論)
- 武士道が登場するが、ここで登場させる意味
- 岐阜提灯が最初と最後に登場するがその意味
- 最後のクライマックスをいかに読むか
- その他
(武士道)
- 武士道を真正面から扱ったとは思えない、新渡戸武士道の安っぽさを皮肉っただけ、作者は武士道に反発しているなどのネガティブな意見が多かった。
- 大正5年作。殉死論争についての作者の意見が反映されていはしないか。
与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」のごときストレートな感情の発露に作者は 賛成しているのでは。 - 賛成、新渡戸武士道を皮肉るだけでなく当時の建前論に対する批評はしていると思う。
西山夫人の態度は日本文化についての作者の懐疑ではないか。
(岐阜提灯)
- 作者はこの小道具で先生=新渡戸をおちょくっている。
- しかし、提灯の意味は依然不明確というところ。
(最後のクライマックス)
- 西山夫人はストリンドベリの読んでいたか死んだ息子に聞いていた、それを下敷きにしてそういう振舞いをした、という意見が出た。新説であり、議論活発化した。
- クライマックスシーンを断定せずに曖昧にすることで、何とはなく先生=新渡戸を皮肉るのは分かるが、では夫人はどうしたら良かったのだろうか。
最後がちょっとスッキリしないな、との声があった。