『悲の器』高橋和巳
本の紹介
1960~70年代の一時期、一世を風靡した作者の初期の代表作。『悲の器』(’62)、『散華』(’63)、『我が心は石にあらず』(’64~66)、『邪宗門』(’65~66)と続く作品は、主人公が法学教授、特攻生き残り、左翼の青年、新興宗教家と異なる。しかし、彼らはいずれも戦前・戦中・戦後の大混迷の時代に自分の夢を描いて突き進み、そして最後はその夢に敗れ去った者ばかりである。『悲の器』は、その先駆けとなる作品である。
読後感想・議論
(作家論)
- 作者はある種の行動派。学生時代に学内でハンガーストライキを単独決行したり、70年後は新左翼、全共闘に共鳴したりで、じっとしていられない性格。
- 一方では、非常にハードな吉川幸次郎ゼミをやり通すだけの学究肌。
- 硬骨漢である。 早死にが惜しまれる。
(主人公・正木典膳の人格論)
- 東大(と思われる)法学部長という、小説にはおよそそぐわない職種の人間を持ってきたところがこの作品のミソ。
- 主人公は帝大の典型的な人だろう。
- 正木は権威主義者か否かで意見が割れた。
ベースは権威主義とする意見に対し、純粋に「理の人」で、俗的な権威権力とは距離があるとする意見があり議論。 - 作者は社会の枠組みへの疑問を呈示している。つまり、
正木:法秩序そのものの体現者であり、社会的な権化である。
理性をベースに判断行動する性格。それに対して、
弟:宗教もあるよ
米山みき:愛や情もあるよ といっている。 その対比が面白い。
(主人公と寝たきりの妻の関係)
- 正木は自分なりのやり方で最大限妻に尽くした。普通の意味での「愛」かどうかはとも角、精一杯やった。それでいいではないかと思っている。
- 妻は死ぬ前の手記で、自分の病気を一切責めない、却って苦しかったと書き残す。
心がお互い通っていなかった。それでも正木は後悔や自責は起きない。
ここが作者の真骨頂。メロドラマにせず、正木らしさを貫徹させた。 - 作者は正木の生き方が良いと言っているのではないが、こういう人物像を作り上げてそして最後は作者自身も正木を批判している。そこが作者のすごいところ。主人公に寄りそわないのがすごい。
(正木の検事転進)
- 重要な局面と思う。しかし、転進の理由が一般的で、いかにも秀才らしい屁理屈で自分の立場を糊塗するのが読んでいてつまらない。
- しかし、同僚が次々警察に引っ張られ、リンチ、転向強要、職場追放などを見ていると正木が自己保身に走るのを非難できるだろうか。むしろ屁理屈を堂々と転進してほしかった。
- 戦前は検察、警察機能と裁判機能が合わさっているのを意外に思った。
(その他)
- 宗教家の弟との対立をもっと書いてほしかった。
- 弟は理想化肌で真摯に取り組んでいたが、後半は、だらけたと書かれている。ここに当時の学生運動家の姿を重ねてみた。
- 主人公は法律家でなければならないのか。例えばタービンの専門家ではだめか。
- 秩序の体現者というイメージからすると法学者が適。