日中間の歴史認識の共有化に向けて
―横浜市と上海市の共同研究から学ぶこと―
平成27年7月21日
担当 有賀英樹
はじめに … キーワードは“横浜”
- 160年前(江戸末期):戸数80戸程度の小村⇒現在:人口370万人(162万世帯)の大都市
- 開港(1859年)を契機に欧米の先進文化を吸収しながら近代都市へと生まれ変わった。
Ⅰ 日中関係
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日中間の人的交流と経済関係
- 日本から中国へ年間272万人、中国から日本に240万人の人が往来(2014年)
- 日中貿易:総額3,437億ドル(2014年)で中国は最大の貿易相手国(中国にとって日本は第2位)
- 対中投資額は米国に次いで2位、進出企業:23千社(’13年)、在留邦人:135千人(’14年)
- ピーク時に比べ減少傾向にはあるが、日中間の経済的な相互依存関係は依然として深い。
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日中共同世論調査
◇「言論NPO」と「中国日報社」(China Daily) による共同世論調査結果(2014年10月)
- 相手国に対する印象:日本人の93% (昨年92%)、中国人の87% (同90%)が「良くない」と回答
- 悪印象の理由:日本人は「中国の大国的な行動」、中国人は「尖閣」と「日本人の歴史認識」
- 一方、両国とも70~80%近くの人が、こうした現状は改善する必要があると考えている。
- 今後日本を訪れる中国人(現状6.4%)が増えれば、対日印象は良くなる可能性がある。
Ⅱ 日中間の対話の試み
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政府間ベースの試み
◇『日中歴史共同研究』(2006年12月~2009年12月)
<経緯>
- 2005年 4月 … 小泉政権当時、日本側(町村外相)から日中歴史共同研究を提案
- 2006年10月 … 安倍総理大臣訪中時、日中首脳会談において正式決定
- 日中双方の有識者それぞれ10名から成る委員会を設置。(日本側座長は北岡伸一氏)
- 2006年12月~2009年12月 … 北京・東京で交互に4回の会合実施
- 2010年 1月 …日・中それぞれ自国語による報告書を発表(外務省HPで閲覧可)
<総括>
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①ポイントは、政府主導の共同研究であること。
発端は、小泉首相の靖国神社参拝(2001~2005年)によって悪化した日中関係の打開策として日本側から持ち掛けたもの。狙いは、歴史認識問題の“非政治化”。(=「保険」北岡座長) -
②共同研究の表向きの目的は極めて真っ当!
『両国の有識者が、日中2千年余りの交流に関する歴史、近代の不幸な歴史および戦後60年の日中関係の発展に関する歴史についての共同研究を通じて、歴史に対する客観的認識を深めることにより、相互理解の増進を図ることにある。』(報告書「序文」) -
③しかし、当初からこの共同研究を疑問視する声が多かった。
共産党の歴史観が絶対的な中国においては、研究者は党の公式見解を踏襲する以外に選択肢はなく、独自の見解を表明することは不可能ではないか、との疑問。
※『下手をすれば…中国に都合のいい、事実に反する史観を無理やり飲まされて、それが政治的に公定の歴史とされてしまう。』(伊藤隆 東大名誉教授 「諸君」2007年2月号)
- ④結果は、予想通り中国側は政府発表の原則論に固執し、日中戦争を含む「近・現代史」部分に関しては意見が平行線を辿ったため已むを得ず両論併記とした。(双方とも言いっ放し!)
- ⑤最大の問題は、「戦後史」の部分が中国側要請により一切の公表が見送られたこと。そのため、戦後日本が平和国家としての道を歩んだことや、中国への多額の経済支援の実績等もすべて無視されてしまった。日本側がなぜこれに同調したのか大いに疑問!)
【結論】
- ①この共同研究により、日中両国の歴史に対する認識の違いが一段と明確になった。
- ②両国の討論を通じて、中国の研究者が共産党の歴史観に反して独自の見解を提示することは不可能ということが改めて明らかになった。
- ③なにより、共同研究の成果は、内容の如何にかかわらず等しく両国民に公開されるのが筋であり、それが出来ないのであれば最初から共同研究など行うべきではなかった。
- ④結局、政府主導の共同研究によっては歴史認識の共有は到底望めないことが確認された。
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民間ベースの試み
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(1)雑誌社による討論企画
◇『文芸春秋』の特集:「日中大論争」(「2005/8月号)、「激突!日中大闘論」(2007/1月号)
・論客(日本側:櫻井よしこ、中国側:歩平)同士を対決させる手法は読みものとしては面白いが、所詮は出版社がにわか仕立てで集めた日中の知識人が、その場限りの議論を戦わせている感じで、最後まで話が噛み合わないまま、お互いフラストが残る形で終わった。
・この種の討論会は限界がある。(特にテレビのバラエティ感覚の討論番組は論外!) -
(2)「日中若手歴史研究者会議」による共同研究
◇『国境を超える歴史認識 ― 日中対話の試み』(東京大学出版会 2006年5月)
・日中の中堅・若手研究者が立ち上げた「日中若手歴史研究者会議」が、5年を掛けて過去150年間の日中関係史の代表的な争点について共同研究した成果を1冊にまとめたもの。
・メンバー同士の日常的なコミュニケーションをベースにした実証的な共同研究で、お互いの意見を尊重し、冷静に理解しようとする姿勢が見られ、「文芸春秋」の一発企画とは全く異なる。
・但し、本書で述べられている中国側意見は、海外の大学や研究機関にいる比較的自由な立場の中国人研究者(一人はアメリカ在住、二人は日本在住)の意見であり、中国本土にいて中国政府の政治的圧力を受けている中国人研究者の意見ではない点に留意すべき。
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(1)雑誌社による討論企画
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横浜市と上海市の共同研究
<経緯>
- 横浜市と上海市は、1973年に“友好都市”の提携を結び、毎年多岐にわたる文化・学術交流事業を行ってきた。1993年は提携20周年の節目の年に当たるので、その記念事業として、1989年から 4年かけて「両市の都市形成の発展の比較」を共通テーマとする共同研究を実施した。
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メンバーは、
- 横浜側:
- 横浜上海都市形成史研究会(代表:横浜市大加藤祐三教授=後に学長)
- 上海側:
- 上海社会科学院歴史研究所、上海市档案館(公文書館)
- 1993年、研究成果について両市で記念展示会を開催&共同論文集の刊行。
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1995年、『横浜と上海―近代都市形成比較研究』(横浜開港資料普及協会)発行。
同年、上海側も中国語版『両個開放城市-上海和横濱(1840~1927)』を発行。
<研究内容・総括>
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①本共同研究は、19世紀中葉、両市が開港に伴い設置した「居留地」(上海では「租界」)を、政治・経済・社会全般にわたって詳細に比較分析したもので、このような都市同士の複合的な共同研究は、国際的な学術交流においてほとんど例を見ない画期的な試み。
※ 双方から提出し合った史料・文献の読み合わせと並行して、相互に現地を訪問し合い、旧居留地地域、外国人墓地、中国人墓地、浄水場、競馬場、etc.の実地調査を共同で行う等、積極的に交流を図った。
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②本事業は、あくまでも両都市の友好を目的とした交流事業の一環であって、「歴史認識」の一致とか共有化をモチベーションとして行ったものではない。
ただ、このようなテーマ (「両市の都市形成の発展の比較」) で共同研究を進めていけば、自ずと両都市が辿った過去の歴史そのものに踏み込んで行かざるを得ないのは自然な流れであり、それはある意味、“双子の姉妹”としての両都市が持つ宿命とも言える。
…横浜も上海も19世紀中ごろ外圧によって港を開き、港の近くに『外国人居留地』を形成した。更にその居留地という存在を通じて国内のどの都市にも先駆けて欧米の先進的な文化と物質文明に触れ、それらを自らのものに摂取・吸収することによって成長した。即ち、両市とも『開港』を共通の歴史的契機として都市発展の形成を行ってきた、いわゆる『開港都市』であるという点において、極めて似通った歴史を持っている。
- ③しかし、このように生まれた時は“双子”同様であったにも拘らず、その後、一方は“半植民地化”という苦渋の道を歩まされ、一方はさまざまな制約を受けながらも、主権を保持したばかりか欧米列強と並ぶ強国に成長した。いったい何が双子の姉妹の運命を分けたのか?(言い換えれば、なぜ日本はあの時期、列強の植民地にならずに済んだのか?と 、、、)
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④その問いに対する日本側の見解は、日本側代表の加藤祐三教授の基調論文『二つの居留地-19世紀の国際政治、二系統の条約および居留地の性格をめぐって』(69-100頁)に集約されている。
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i)徳川幕府が頑張ったこと
・鎖国はしていても海外情報はしっかり収集し分析していたこと。(特にアヘン戦争の情報)
・ペリー来航(1853、54年)に際し、戦争を回避し、最後まで外交交渉を貫いたこと。
・開港場の場所、居留地の運営・管理等に関し、幕府が常に主導性を発揮したこと。※中国:上海租界の建設に「金も出さず、口も出せず」⇒主権が及ばない「国の中の外国」が生まれた
日本:横浜居留地のインフラ整備に「金も出したが口も出した」 ⇒ 主権を維持、租界化を回避 -
ii)交渉条約と敗戦条約の差
・中国(敗戦条約):賠償金、領土割譲、主権の一部喪失 …開港は「半植民地化」の端緒
・日本(交渉条約):主権を保ち、外国の介入を排除 …開港は「近代化」の象徴、繁栄の礎
※(個人的には)日本は「天の時」、「地の利」、「人の和」に恵まれたことが大きかったと考える。
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i)徳川幕府が頑張ったこと
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⑤これに対し、上海側も、中国(清朝)が半植民地化を免れることができなかった理由について、横浜居留地と上海租界の建設と運営方法の違いを比較しながら冷静に分析している。
「上海と横浜の開港、及び租界と居留地の開設を比較すると、清朝政府も徳川幕府も、外国人居留地の設置には同様に強い警戒心を抱いていたことがわかる。それは、清朝も幕府も、長期にわたり閉関(鎖国)政策を採りつづけたため、外部世界に対する認識が不十分であり、自衛意識が強く働いたことと無関係ではない。しかし、アヘン戦争に敗れたことにより、清朝の上海地方官は、居留地開設に関する案件の処理にさいして、最初はイギリス側の区画案に異議をとなえたものの、最終的にはイギリスの言い分を呑まざるを得なかった。
これに対し、幕府は、当初は神奈川を開放して外国貿易をおこなうことに同意せざるを得なかったが、実際には自らの主張を押し通し、横浜開港と居留地の設置を実施し、主導的な地位を保つことに成功した。これが両国の相違点である。その後の歴史が証明しているように、受動的であったか、能動的であったかの違いが、上海租界と横浜居留地の発展過程において現れたさまざまな相違の重要な原因となってくるのである。』(馬長林「近代における上海租界と横浜居留地の比較研究」107頁)
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⑥また、当時の中国と日本の対外的な姿勢の違いに関して、以下の分析をしている。
『19世紀後半中国は…欧米文化に対しては基本的には受動的接取という状況にあった。
長い間に没落・腐敗しきった清朝政府は、外国の先進的事物を受け入れる視点も度量も持ち合わせていなかった。 (中略)日本は外国の侵略の威嚇を前にして、侵略される事態から主権を守り、その立場を受動的なものから能動的なものへ変えていった。明治政府は資本主義強国となるべく、富国強兵、殖産興業、文明開化のスローガンを提示し、そのスローガンのもと、欧米に学び欧米文化を広範に吸収移植することを奨励した。こうして日本政府と日本民族は先進文明を勇敢に摂取する開放性、また先進文明を吸収することに長けた知恵と能力をはっきり示た。』(鄭祖安「上海・横浜都市形成の比較研究」58~59頁)
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⑦もっとも注目すべきは、中国側が上海の屈辱的な開埠(開港)とその後の半植民地化の実態に関し、単に被害者の立場を強調するだけに止まらず、開港の歴史的な意義について言及し、そこから真摯に教訓を学ぼうとしている点である。(こうした謙虚な姿勢は中国では決して見られなかったことであり、特筆に値すると思われる。)
『歴史に対しては、その時点に留まったままの静態的・一面的評価は慎むべきである。歴史的意義と影響についての評価には、往々にして時間の経過が必要であり、冷静かつ真摯な考察こそが全面的認識を可能にする。今こうして150年の上海の発展の道のりを顧みるとき、『開埠』(開港)は確かに半植民地化への端緒ではあったが、同時に、近代化と国際化の第一歩でもあり、中国が世界と向き合い、世界とともに歩むきっかけとなったことを認めざるを得ない。このような重大な歴史の転換点をただ負の部分と悲惨な面だけを見て単に否定するだけでなく、むしろそれが歴史の発展に果たした役割と影響のなかから、都市の興隆に果たした積極的な面を明らかにしていくことが必要であろう。 特に今日(※1993年)、中国は再び現代の開放という新しい道程に踏み込み、再び世界に向けて歩み始めた。これは近代の開放に続く第2の開放であるが、今回中国のおかれた条件は150年前とは異なり、完全に自らが選択した能動的な対外開放である。中国は現在、大いなる勇気と自信とを持って国際社会に融け込み、人類の文明を吸収する中から自らを振興しようとしている。今こそ、われわれは歴史の高みに立って、寛大な気持ちで過去を振り返り、歴史的に積極的意義を有する一切のものを究明する必要があろう。 こうして初めて、我々は歴史の陰から抜け出し、「開埠」が持つ歴史的役割の全面的考察が可能となるのである。」
(鄭祖安「上海・横浜都市形成の比較研究」39~40頁)
【結論】
以上見てきたように、横浜市と上海市の共同研究事業は、それ自体は必ずしも歴史認識の共有化を目的として行われたわけではなかったが、結果として、我々が日中間の歴史認識問題を考える上で大きな役割を果たした(=重要なヒントを与えてくれた)ものと確信する。
すなわち、
- ①19世紀中葉、西欧列強が世界中を植民地化した末に、最後に残った東アジア地域に利権の確保を求めて一斉に押し寄せてきて、それまで鎖国政策を続けていた日中両国が、外圧による「開国」(開港)という未曽有の事態に直面した際に、両国が取った列強諸国に対する対応の差や、開港後の居留地の運営方法の違い等について日中間で地道に共同研究を重ねることにより、なぜ一方は植民地化を免れることが出来、一方は半植民地化を避けることが出来なかったのか、という歴史上の命題に関して、日中双方で略々共通の認識が得られたこと。
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②中国の近・現代史に関して、これまで自国の置かれた立場というものを、一貫して列強による侵略の“一方的な被害者”としてしか捉えていなかった中国政府(=共産党)の歴史観から一歩抜け出して、上海開埠(開港)という歴史的事象に対して冷静に向き合うことによって、そこから前向きに歴史の教訓と意義を見出そうとする姿勢が中国サイドに見られること。
このような意見なり、考え方が中国側から抵抗なく出てきたこと自体、この共同研究の最大の成果と言ってもよいのではないかと思われる。
Ⅲ 横浜&上海の共同研究から学ぶこと
「横浜市と上海市の共同研究」(以後『両市』と省略)が、このような成果を挙げることが出来た理由は、政府主導の「日中歴史共同研究」(以後『日中』と省略)と比較すると一目瞭然で、そこには歴史認識という“密室”をオープンするための重要な“鍵”がいくつも隠されている。
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①もともと『両市』の目的は、“友好促進のための学術交流事業”であったこと。
最初から歴史認識の一致/共有化を目的としていなかったことが、却って肩に力が入らず、良い結果を生んだ。一方、『日中』の方は歴史問題を意識しすぎ。(中国側の思うつぼ!) -
②『両市』の研究の主体が国家レベルではなく、“市単位”であったこと。
それだけ制約も少なく自由度が高かった。『日中』の中国側メンバーは、全員国家機関に所属し、国を代表する立場から国の意見に縛られ、自由がなかったのと比べると対照的。 -
③『両市』の研究対象とした“時期”が適切であったこと。
横浜・上海が開港した19世紀中ごろは、日本と中国はお互い敵対関係にはなく、西欧列強の攻勢に如何に対峙するかという点で同じ立ち位置にいた。従ってこの時期を共同研究する場合、双方は冷静かつ客観的に研究を進めることが出来た。一方、『日中』の方は、横浜・上海の開港の歴史的な意義をきちんと理解することなく、日中間の戦争に焦点を当て過ぎたため、最初から被害者・加害者の関係でしか議論が出来なかった。 -
④『両市』の研究対象とした“地域(場所)”が上海&横浜という最適な場所(共に国が初めて対外的に開いた開港都市)であったこと。
他の地域同士では同じ結果が得られたか疑問。更に、委員会の中心メンバーが上海人と横浜人で、お互いに両市の辿った歴史を心情的に理解し、共感し合えたことも大きな要因か(?)。・・・ 『日中』の中国側委員は北京中心で、上海系の人はいない。
(参考)司馬遼太郎『街道をゆく-横浜散歩』・・・“横浜人”の持つ気質
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⑤『両市』が研究活動を始めた“タイミング”が良かったこと。
共同研究の発端となった横浜市ミッションの上海訪問は1987年で、この時期の日中関係は比較的良好な時期であったことが幸いした。一方、『日中』 は、2006年に開始した時には、既に日中関係はかなり悪化していた。
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☆山崎豊子の名作『大地の子』は、当時(1987年)の中国側トップの胡耀邦が開明派で、山崎の取材要請に全面的に協力してくれたおかげで実現した。
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☆『人民中国』誌原稿ボツ事件:※北京で発行されている日本語月刊誌
2009年7月号の特集「開港150周年の横浜と上海」で掲載予定であった日本人の原稿が発行直前になって本社(北京)の指示により取り止めになった。
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⑥なにより、『両市』のメンバーが友好を第一として共同で現地調査を行う等、積極的に相互交流と対話に努め、信頼関係を深めたことが望ましい結果に結び付いたものと思われる。
Cf.『横浜と上海―近代都市形成比較研究』中の、両市の共同編集委員会の「前文」に結実。
Ⅳ まとめ―歴史認識の共有化に向けて
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日中間の歴史認識の共有化は可能か?⇒答えは“No!But Yes.”
歴史認識の対象時期を専ら日中戦争の期間だけに限定し、双方が加害者と被害者の関係においてしか向き合えないとすれば、永遠に認識の共有化は望めないだろう。(=No!)
※韓国朴大統領発言「被害者の立場は1000年経っても変わらない」
※「コロンブス500年祭」(1992年)における中南米諸国のコロンブスの評価:“犯罪者”
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では共有化は絶対に不可能か?⇒ 必ずしもそうとは言えない(=But Yes!)
歴史認識の対象時期を両者が加害者と被害者の関係でない時代(19世紀中ごろ)にまで遡れば、少なくともその時点での歴史認識を共有することは十分可能。現に、横浜市と上海市の共同研究がそのことを実証している。 -
その場合、中国側はおそらく「そんな時期で意見が一致しても何の意味もない。日本の侵略の歴史に関する認識が共有できなければ、、、」と主張してくることが予想される。
なぜならば、江沢民がトップになって以後の中国では、日本に対して『歴史認識』という場合の「歴史」とは、歴史全般を指すのではなく、20世紀前半の日本の侵略戦争と植民地支配時代の15年間(~30年)を意味し、『歴史認識』という言葉は、常に「日本(人)の戦争加害行為の認識」というバイアスがかかった意味で使われるからである。
※「江沢民文選」(2006年発行):江沢民が自ら著した報告やスピーチ、指示などを集大成した書籍
― 江沢民は共産党総書記・国家主席在任中の1998年8月、在外大使ら外交当局者を一堂に集めた会議の席上で対日関係の基本方針を説明、今後、日本に対しては、一番の弱点である「歴史問題」を外交圧力の最重要カードとして常に使用するよう指示を出した。 -
中国側のこのような一方的な歴史観に対して、日本はその場で反論することが肝要である。
- 歴史を見るスパンが短かすぎること…15~30年のスパンでしか見ていない
- 空間(地理)的視野が狭すぎること…中国内、それも日中関係しか見ていない。
日中戦争はある日いきなり始まったわけではない。そこに至る過程として、まず西洋の衝撃(ウエスタンインパクト)があり、それによって東アジアの国際秩序が地殻変動を引き起こしたり、各国の政治体制にもさまざまな構造変化をもたらした。そうした当時の中国やアジアを取り巻く国際的な環境とか、西欧列強同士の複雑な対立関係を全く無視して、単に日本の侵略部分だけをザックリ切り取って集中的に非難する、こうしたやり方は、「歴史認識」どころか、むしろ『歴史認識』から目をそらす行為ではないか!(政府主導の「日中歴史共同研究」では、日本側は、南京事件の犠牲者の数に関して延々と不毛な議論はしても、肝心のこういった突込みはしていない。)
※日本人は歴史認識が苦手な民族と言えるが、中国人は本来、歴史認識を長いスパンで捉えることが得意な民族の筈!(「150年待つ」と平気で言える感覚!)― 勘ぐれば、中国は日本が歴史を長期スパンで捉えることが苦手なことを知った上で、それを逆手に取って、故意に「歴史認識」の対象を、時間的・空間的に(日本の一番弱い部分に)絞り込んで、日本に心理的なプレッシャーを掛けているのではないか。
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歴史は悠久の大河の流れに似ている。その中のある時点だけを切り取って論ずることは正しい歴史認識の在り方とは思えない。大河の源流にまで遡って、なぜそのような事象が生じたのか、歴史全体の流れの中で背景や経緯をしっかりと把握し、反省すべきは反省し、そしてそこから教訓を得ること、それが真に「歴史から学ぶ」ということではないだろうか。
※ただ、中国では戦争被害者の遺族はまだ大勢生存しており、親や兄弟など肉親を殺された経験を持つ世代の人々は日中戦争による痛みを簡単に忘れることはないだろう。人間の常として、被害を受けた経験は記憶に長く留まるが、加害の記憶は忘れやすい。そのことは我々日本人も常に心に留めておく必要があると思う。
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以上見てきたように、横浜市と上海市の共同研究は、その成果の重要性に鑑み、横浜のみならず、我が国全体にとっても、歴史認識の共有との関係で極めて意義のある研究であったと思われるが、残念なことに一般にはあまり知られていないのが実情である。
※例えば、政府主導の「日中歴史共同研究」の報告書においては、横浜市と上海市の共同研究のことは一言も触れていないし、そもそも横浜&上海の「開港」そのものに関してもごく簡単にしか触れておらず、その意義についても全く無視している。(しかも内容に誤りがある。)
※高校の歴史教科書(例えば、山川出版社『詳説高校日本史』平成26年版)でも、横浜開港に関する説明はほんの数行で済ませていて、巻末の年表にすら載っていないありさま。
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更に残念なのは、当の横浜市自身が、この誇るべき共同研究について、そして横浜開港の歴史的な意義について、その重要性をあまり認識しているとは思えないことである。
- ①もともとこの共同研究は、1993年の両市の友好都市提携20周年の記念事業として企画実行されたものであったが、その後、両市の提携30周年(2003年)、40周年(2013年)と、何度も機会があったにも拘わらず、主に文化・ スポーツ分野での交流が行われたのみで、20周年の時のような開港の歴史的意義をテーマにしたイベントは何も行われなかった。(20周年の時とは時代も雰囲気も変わってしまったということか。)
- ②特に惜しまれるのは、2009年の「横浜開港150周年」。この時は、かつての上海市との共同研究の成果を対外的にアピールする絶好の機会であったが、実際に実施された記念行事の多くは娯楽中心で、グローバルな視点から見た横浜開港の歴史的意義については殆ど関心が向けられることもなく、一過性のお祭り騒ぎで終わってしまった。(唯一「黒船研究会」主催の『開港150周年記念シンポジウム』が地元TV、新聞で採上げられた程度。)
おわりに…改めてキーワードは“横浜”
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日中間の歴史認識問題を論ずる場合、お互いが感情的にならず、冷静に話し合いができる環境作りがなによりも大切である。そうした環境作りをしないままで議論を始めると、ボタンを掛け違えたまま話が平行線を辿りがちで、いつまでたっても認識の共有化にはたどり着けないことになる。(「日中歴史共同研究」の失敗が良い例)
そうした事態を避けるためには、日中両国がお互いに敵対関係になく、被害者と加害者の関係ではなかった時期、すなわち、19世紀中ごろ、西洋の衝撃(ウエスタン・インパクト)に如何に対応するかで日中が同じ立ち位置にいた時点にまで遡って、その時点での認識をまず共有しておくことが、その後の両国関係の不幸な時期について論じるに当たっても 重要な“布石”になると思われる。そういう意味では、横浜市と上海市の共同研究は、正に日中間の歴史認識問題を考える場合のいわば “原点” と位置づけてもよいのではないだろうか? - 同時に我々(日本側)としても、この共同研究で明らかにされた「横浜開港」の歴史的な意義とその重みをいま一度よく噛みしめ、幕末から明治にかけて欧米列強が一斉に東アジアに押し寄せてきたあの時代、一歩間違えば横浜も上海の二の舞になったかもしれない、いわば累卵の危機にあって、よくぞ日本を植民地化の危機から守ってくれた先人たちの、知恵と勇気と決断に我々はもっともっと感謝してもよいのではないだろうか!それが出来てこそ、初めて横浜の比較事例としての「上海開港」の持つ真の歴史的な意味も より深く理解出来るであろうし、またその後の両国の不幸な歴史を客観的に直視することも可能になると思われるからである。
- 「横浜開港」(=日本の開国)は、我が国が近代化に向かって第一歩を踏み出した象徴として、日本の歴史上もっとも重要な出来事の一つであることは言うまでもないが、同時に、「上海開港」の歴史的意義を、横浜開港との比較において考えることを通じて、中国側の歴史認識の在り方にも大きな影響を与えたという点で、日中双方にとって、歴史認識問題を考える場合の共通の“キーワード”と言えるものと思われる。
以上
(参考)
◆横浜黒船研究会
(目的)
『幕末のペリー来航から明治にかけての神奈川一円を舞台とした対外交渉史、文化交流史、並びにそれらが地域社会に及ぼした影響、特色ある文化を形成した足跡について研究し、それらの現在、未来との関係のあり方を模索すると共に、研究成果については保存して極力社会還元に努める。』
「横浜黒船研究会」会則第2条
◆司馬遼太郎の“横浜”観と“横浜人気質”観
『横浜には旧幕時代という歴史があり、この点、神戸とちがっている。
神戸は、明治維新とほぼ同時に開港したために、迷いも暗さも苦味もないあっけらかんとした開明時代そのものの歴史が、まちの性格を決定づけている。
(中略)
横浜に住む人々のあいだには、横浜が経てきた足取りをたえず確かめてゆきたいという気分がある。 神戸にもそれがあるが、濃度において淡い。(中略)
たしかに、このまちは日本の他の都(と)鄙(ひ)と異なっている。都市に含有されている「成分」というべきものが多様で、こういうまちに育って成人したひとびとは、倫理的な骨組みや美的な皮膚感覚、さらには自己のなかの世界像が、どこか違ってくるに違いない。』
司馬遼太郎『街道をゆく―横浜散歩』より
◆横浜市歌 作詞 森 林太郎(鴎外) 作曲 南 能衛
1. わが日の本は島国よ 朝日かがよう海に 連なりそばだつ島々なれば あらゆる国より舟こそ通え |
2. されば港の数多かれど この横浜にまさるあらめや むかし思えばとま屋の煙 ちらりほらりと立てりし処 |
3. 今はもも舟もも千舟 泊る処ぞ見よや 果てなく栄えて行くらんみ代を 飾る宝も入りくる港 |