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サロン21

大久保利通に学ぶ

はじめに
 浅学非才の身が、大久保利通について、ただ史実を並べただけでは、意味がない。大久保利通の生涯に触れて、学んだこと、感銘を受けたことについてのみ記すことにしたい。その意味では、個人的独断の感想文である。なお、大久保の生涯に触れると、それが触媒作用となって、考えがどんどん脇道へ逸れて行く。それもお許し頂きたい。

1、人格の形成

(1)大久保家
 大久保は一八三〇年(天保元年)に生まれた。家は、薩摩藩の武士、城下士の中でも一番身分の低い御小姓与(ぐみ)に属していた。一男四女の二番目であるから、将来は家を継いで一家の柱となるべき責任と義務を感じて育ったであろう。父利世は、琉球館附役であった。大久保も琉球の産物等の話を聞いて、海の向こうの広い世界について興味を抱いたかもしれない。父と並んで、幼少期に影響を及ぼしたと思われるのは外祖父皆吉鳳徳である。鳳徳は蘭学を学び、海外事情に明るく、日本で最初の西洋式帆船を造った人物である。大久保が八才のときに死んだが、幼かったとはいえ、強い印象を残したと想像される。
 一家に大事件が起きる。大久保が二十才のとき、父 利世が、藩主の跡継ぎをめぐる「おゆら騒動」に連座して遠島を申し付けられる。身分が低いのに拘わらず遠島とは、やはり、政治に関心があり深く運動に参画したものであろう。大久保自身も、十七才から勤めた記録所役助を免職となった。このときから、一家は収入の道が無くなり、大久保の刻苦が始まる。『大久保利通文書』第一巻の最初の文書が、借金の依頼文である。苦労は三年間続いた。三年あまりの後、島津斎彬が藩主に就任し、役所に復帰することができた。この間の 一家の受けた災難を通して、 生涯の座右の銘の一つ「堅忍不抜」が養われ、政治の持つ力と人々の生活に対する大きな影響力などを、痛切に肌身に植え付けられたことであろう。
(2)大久保の号「甲東」について
 私の読んだ著作には、出生は鹿児島の加治屋町あるいは下加治屋町と書かれたものがある。しかし、勝田孫弥『大久保利通』によれば出生は甲突川の西にある高麗町で、生まれてまもなく東側の下加治屋町に越してきたとある。いずれにしてしても、幼少のときより青年期まで下加冶屋町で過ごしたのは間違いない。大久保の号は「甲東」である。甲突川の西で生まれたにせよ、「甲東」を号としたことは、大久保の下加治屋町へ寄せる思いが伝わってくるようだ。甲突川の西は武士でも上士が住む地区であり、東の加治屋町は身分の低い下士の居住地域であった。明治維新で活躍した志士達は、薩摩藩に限らず、身分の低い層の出が多い。これは、上士のように藩政に深く参画出来る保証のない鬱屈した気持が、一気に藩の外へ、中央へと向かわせる動きに繋がったのであろう。さらに、薩摩、長州については、関ヶ原時代からの徳川に対する怨念が、上士下士に限らず伏流水として存在していた。大久保は、こだわり執着の人である。終世用いた号の「甲東」に潜む大久保の気持には深さを感じる。
(3)郷中教育
 下加治屋町七十数軒の家から、明治国家を造った中枢の人材が輩出した。西郷隆盛、従道の兄弟、友井吉実、伊地知正治、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛、そして大久保と、なぜこのような逸材が育ったのか。薩摩藩には、「方限(ほうぎり)」という町をいくつか集めた区域ごとに「郷中(ごじゅう、またはごうじゅう)」という組織があった。六、七才の少年から青年にいたるまでの男児が日常の大半を一緒に過ごし、身体の鍛錬と学習を年長者の指導の下に行うという制度である。少年期の成長に影響を与えるのは両親であるが、あるいはそれ以上に影響があるのは、同年齢の者と年令の接近した年長者である。かれらが一緒に、終日学習したり武道に励んだり切磋琢磨するのである。人間関係の持ち方の初歩はここで養われたであろう。年上に対する接し方、年下の者に対する指導力など、組織の中での生き方を学んだと思われる。郷中の基本の教えは、負けるな、嘘をつくな、弱い者をいじめるな、であった。薩摩には学問に溺れることを戒め、むしろ武士としての生き方、胆力を養うことを是とする風があったようだ。郷中を共に過ごした仲間は、友情、敬愛の心で結ばれ、団結力は極めて強かったと察せられる。もっとも、西南戦争勃発の原因である私学校生徒の群は、強い団結の下に暴走したのであったが。会津にも郷中に似た「什(じゅう)」という組織があった。「什の七つの掟」も郷中の教えとたいへん共通している。掟の一つ「卑怯なことはするな」と、最後を締める「ならぬことはなりませぬ」の言葉を私は好きである。
 日本における同種の教育組織は、明治以後では知らない。強いていえば、旧制高校の寮生活にその片鱗があったぐらいであろうか。諸外国を見渡すと、イギリスのパブリック・スクールに共通点があると思われる。中高一貫、寮生活を共にして、ノブリス・オブリージェの精神、団体スポーツによってチームワーク、ガッツそしてフェアプレーの精神を叩き込まれる。パブリック・スクールからオックスフォード、ケンブリッジを共にした仲間は、一生強い絆で結ばれ、その中の力ある者がイギリスを動かす。
 郷中教育の良さを現代に持ち込めないだろうかと思う。このところ、中高一貫教育が注目されてきている。私の友人の一人は、各県に少なくとも一、二校、公立の全寮制中高一貫の学校を作るべしという構想を唱えている。私はこの構想に賛成である。
 西郷と大久保は、郷中の仲間から指導者として認められ、次第に頭角を現してついには国を率いる指導者となった。現代においても、教育制度が将来の国の運命を握ることは同じである。国を背負うに相応しい指導者を生み出す教育制度を、我が国に持ちたいと思う。
(4)時代の背景
 西郷、大久保、木戸、それぞれ二つから三つ違いの維新の三傑は、一八五三年ペリーが日本の鎖国の扉を叩いたときには既に青年であった。「たった四杯で夜も眠れず」浮き足立った混沌の時代が到来し、国の危機を感じたであろう。我こそ、この国をなんとかしなければと、武者震いしていたのではないだろうか。
 しかし、未だ封建の世である。殆どの者は藩主といえども、思考は藩の域内で止まり、国という規模で憂慮した者は少なかったと想像される。その中で薩摩藩は英明で聞こえた島津斎彬が、早くに海外事情を察知して藩の枠をこえ国の将来を見据えて動いていた。「西欧列強に対するには、今の幕府以上に強力な政府を作らねばならない」と。斎彬に重用された西郷は別格として、他の青年たち、当然大久保も大きな影響を受けていた。これは、青年大久保にとっては、この上ない政治的環境に恵まれていたといえる。他の藩の青年たちの多くは、逸る気持を持ちながら、命を賭ける目標は未だ模索中であったのではないだろうか。

2、権力への執着 囲碁と久光

 大久保の逸話に、薩摩藩の最高権力者である島津久光に近づくため、久光の愛好する囲碁を習いそれを手がかりにして久光の懐に入ったという話がある。説がいろいろある。大久保は幼少より囲碁は嗜んでいたから、わざわざそのために習った訳ではないと書いてある著作もある。しかし、大久保の実妹三人から聞き取った松原到遠の記述(注一)によれば、三人は、兄はそのために囲碁を習ったのだと述べている。いずれにせよ、久光に近づくために精力を傾けたことは間違いない。
 島津斉彬が亡くなったのが一八五八年(安政五年)。それ以来、久光に認められるべく努力を開始し、初めて面会がかなったのが一八六〇年(万延元年)であった。この間約二年の年月を要している。大久保について明治の論客池辺三山(注二)は、「西郷は、成彬が急逝したために非常に落胆している。ところで、早速大久保の特性が現れていることがある。大久保は失望していない。失望はもちろんしたろうがガッカリはしていない。これがあの人の一生を通じての著しい特徴だ」と記している。後年、大隈重信が大久保に接近するべく策を弄した、という他人の非難に対して、大久保は、政治を志す者にはその種の行動は必要であると答えている。大久保は、当初大隈を見くびっていたきらいがあるが、あるとき、大隈が大久保に対し懐に飛び込むという一幕があり、それ以後大久保は胸襟を開いたようだ。(注三)
 しかし、大久保の権力に対する執着心の裏には、常に国造りという目標が存在し、その実現のためには己をおいてないという強烈な自負心が横たわっていた。単に権力におもねる輩との違いである。

3、中央集権国家に相応しい強い政府の樹立 公武合体から幕府の打倒へ

 一八六二年(文久二年)、時いたると判断した久光は、斎彬の遺志を叶えるべく兵千を率いて京そして江戸へと向かう。前年から藩政に参画した大久保も久光に従い、初めて中央政治に足を踏み入れた。久光の尽力が実を結び、この年、慶喜が将軍後見職に、松平慶永が政治総裁職に就任する。ここで、本来斎彬の遺志である公武合体が強化され政治は安定する目論みであった。しかし、情勢は二転三転し、個人あるいは各集団の離合集散が渦巻き、武力も交えた権力闘争の五年間が続く。これらを経て漸く明治新政府が樹立されるのであった。
 この約五年間を、大久保の動きの変化だけを追ってみる。
(1)幕府と慶喜に対する見方
 一八六二年に始まった諸侯参加の参与会議はうまく機能せず、久光、大久保は落胆した。第一次長州戦争に際しては幕府に協力したものの、次に、一八六四年参与会議が慶喜の独走で解体の止むなきに至ったとき、幕府と慶喜個人への信頼は失せた。これを機に、はっきり幕府批判に転じた。
(2)四賢侯を始めとした諸侯に対する見方
 松平慶永、山内容堂、伊達宗城等と接触の頻度が増すにつれ、慶喜と比較して、やはり器量の差をまず感じとったのではあるまいか。さらに、これらの諸侯は徳川に対する思い入れもあり、往々にして最後は腰砕けになってしまう。頼りにはならないどころかむしろ支障になりかねないと判断したと思われる。
(3)島津久光についての見方
 久光も諸侯と同じく器量としては慶喜には抗しきれない人物である。しかし、他の諸侯と違って幕府打倒では、西郷、大久保に組したところは、はっきり異なる点であった 。ある時から薩摩藩としての新たな施策は久光からは出ていない。久光の信頼を背景に、大久保自身が生み出して動いている。さらに進むと、大久保は薩摩藩の力を利用しつつ、自身の持つ国家像確立のために動いているとしか見えない。新政府樹立後は、久光との距離は開く一方であった。
(4)朝廷についての見方
一八六二年の、慶喜を将軍後見職へ慶永を政治総裁職への運動は、久光と朝廷が一体となって見事に成功した。斎彬時代以前から朝廷に食い込み、朝廷利用の効果をフルに活用してきたのが薩摩藩である。しかし、大久保は公家の力になびく右顧左眄の本性を見抜いており、それ以後、手を結ぶ岩倉以外は、公卿を信用していなかった。ただし、天皇の権威についてはよく認識していた。そこで、時と場合によって大久保は豹変する。長州再征の勅命が出たときには、「非義勅命は勅命に有らず」と公言する。ところが、時変れば、錦の御旗を作成し、倒幕の密勅を岩倉と大久保は共同で策謀したのだった。新政府樹立前後から、以前なら単なる下級武士の集団である新政府を、天皇によって権威づけするべくあらゆる場を用いて尽力したのも大久保であった。
(5)長州に対する見方
 態度の百八十度転換は鮮やかである。幕府も、なかんずく慶喜も、そして現朝廷も頼りにならずと見限った瞬間に、小松帯刀、西郷と共に昨日の敵長州との連携へ方針を大きく切り替えた。坂本龍馬の功績も大きい。薩長同盟を結んだ後、一八六七年四侯会議で慶喜が諸侯切り捨ての行動に出るや、ついに長州と共に、幕府打倒の王政復古を計画する。

 この謀略が渦巻く政争の中で、大久保の敵味方を峻別する目は鋭く先を読む判断は的確である。連携すべき相手を、情勢に応じて取捨選択する。そして、政治が岐路に立つ決定的瞬間においては、大久保は断乎として踏ん張り動かなかった。一八六七年十二月九日、王政復古クーデターを敢行した夜の「小御所会議」、翌年一月の「鳥羽伏見の戦い」にもちこんだ策謀、いずれも、岩倉、西郷と共になりふり構わず、劣勢を跳ね返して初志貫徹した。この三人の踏ん張りこそが、日本近代化の道を大きく進めたのであった。この五年間で、薩摩に大久保ありとの存在感は着実に上がり、日本を動かす先導者の立場へと登りつめて行く。それは、大久保の国造りの目標が、いかなる場合にも揺らぐことなく確固としており、それを基盤とした説得力に大きな力があったからであろう。ひしめく諸国の志士たちの中において、あるいは諸侯をも差しおいて、大久保そして西郷が、抜きん出た存在になった所以もそこにあろう。

4、近代化を目指す新政府の構築 木戸との連携と抗争

 新政府が樹立される前後から、大久保は、木戸孝允との連携、あるいは抗争の時期を迎える。版籍奉還、廃藩置県は木戸との合作である。この間の二人の考え方に、相違点が二つ見受けられる。
 一つ、大久保には藩主への配慮が見られるが、木戸はあくまで抜本改革を目指す。版籍奉還における新しい知藩事に世襲を認めるか否かの問題では、木戸の主張が通った。廃藩置県では、薩摩藩に対する例外的処置を大久保が設けるのに対し、木戸は我慢がならない。大久保は本来漸進の人であり,しかも久光には頭が上がらず、大久保も弱ったに違いない。
 二つ、木戸は「五か条の御誓文」に最後の筆を入れた人である。「万機公論に決すべし」の精神から、すべて衆議にかけて論ずる決定までのプロセスを重視した。それに反し、大久保は、しかるべき実力者は行政の長として実際に仕事を行うべしとの傾向が強い。憶測であるが、大久保は、慶喜と諸侯との会議を経験し、会議の不毛な実態を知り過ぎていたこと、加えて、緊急の重要課題が山積し、それの解決に全力投入することが、今の国造りには肝要と考えていたのではないだろうか。冷徹なリアリストである大久保は、無駄がこれまた我慢できなかったのであろう。
 これで思い出すのは、昭和三十五年の日米安保条約改訂をめぐる大抗議デモである。岸政府に対する抗議の理由の一つは、国会決議までに至る民主的手続きが欠落したことであった。そのとき、岸首相は、いずれ分かる時がくると官邸で言っていたそうである。その通りであった。しかし、民主主義はプロセスが欠かせない。大久保、木戸の論議は、民主主義の原点を意味しているかもしれない。私は、ここでは木戸孝允に軍配を上げたい。
 二人共、連携の重要性は肝に銘じており、木戸が役職を離れると、大久保が木戸の復帰を画策することが何度かあった。明治三年の春には、わざわざ大久保は木戸の新邸祝いに珍しく漢詩を作り贈っている。『大久保利通文書』十巻の中には、和歌はいくつか記録されているが、漢詩が他にあったかどうか記憶にない。この直前、久光が大久保の新政府協力の依頼を蹴ったことからも、木戸との連携を重視したのであろう。木戸は、大久保の政治に処する姿勢が無私であり、その政治力が国に必須であることも承知していた。しかも自分が頼みなのも弁えていた。それでも、苦手意識が強かったようだ。
 明治四年、大久保の出した政体改革案は、後に続く人事をも含めて木戸との折衝が難航し、粘り強い大久保もさすがに音を上げていた。そこへ、廃藩置県の建議があり、日記には、もう思い切って前へ進むしかないので決意したと、廃藩置県に取り組む経緯を述べている。木戸も踏ん張るところは踏ん張った。結局、このとき生まれた政治制度が明治憲法制定まで続き、その後も骨格をなしていたといってよい。大久保と木戸との合作が国のかたちを決めたのでる。
「逃げの小五郎」を追いかける大久保。久光と大久保、西郷と大久保、岩倉と大久保もそうだったが、大久保は自分の足らざる部分をそのときどきはっきり自覚して、埋める労を厭わなかったのである。
 米欧視察のときは、汽車の箱はいつも岩倉、木戸との三人は同じだったが、大久保はほとんど口を開くことはなかったと、久米邦武は松原到遠に語っている。(注四)
「なにしろ大久保さんは無口な人で、汽車の中でも始終煙草ばかりふかしていた。……大久保さんはただニコニコ笑って黙っていた。……洋行中に公が口を開いたのは数えるほどしかない。それほど公は無口だった。……」
 大久保の人生は人を説得する人生であった。この寡黙な大久保が、どうやって木戸をはじめ国の枢軸にある人びとを説得し得たのか、録音テープを聴きたい衝動に駆られる。

5、天皇制と宮中の在り方

 大久保は、新政府樹立までは、帝(みかど)を取り巻く朝廷内政治家の利用と排除を極限まで行った。鳥羽伏見の戦いで幕府軍を打ち破った二週間後には大坂遷都を建議する。これは、帝は国民一般からよく見えるところに在るべきとの考えと共に、帝の周りの公家衆、宮中の女官たちを除いて天皇周辺の環境を一変せんと計ったものであった。この策は実らなかったが、天皇の大坂行幸、ついで江戸から名を変えた東京への東幸を画策する。明治二年新政府の改革で公家は殆ど参議からいなくなる。西郷と共に、宮中から女官を一掃し、武術と学問で天皇の生活を固めた。
 新政府が誕生したとはいえ、その権威は薄氷をふむがごとくであり、それの背景として、薩長の力を表にだすしかなかった。それも、久光の協力を得られず、このときから意識的に天皇親政を表に打ち出し、新政府並びに官僚行政の権威づけをしたと思われる。しかし、明治六年の「立憲政体に関する意見書」にみるように、天皇は直接政治からは距離をおいて統治するとの考え方が土台となっている。時系列的に、大久保の考えを理解しないと誤解を生むであろう。
 ところで、東京遷都は前島密が大久保に建議したというのが定説であるが、『大久保利通文書』に、『勝海舟言行録』から引用した文言が載っており、それによると、勝が大久保に提言したのだという。徳川で飯を食ってきた何十万の民を何とかせねばならぬ、それには東京遷都が必要であると。ところが、その『勝海舟言行録』のどこを探しても、その箇所が見当たらない。不思議である。

6、米欧視察

(1)殖産興業
 前記、久米邦武の回想談には、
「・・・バーミンハウへ行く時の汽車の中では、突然話に『私のような年取ったものはこれから先のことはとても駄目じゃ。もう時勢に応じんから引く方じゃ』とこれだけ言われた」とある。
 これは、イギリスの製鉄、造船、紡績といった工業の隆盛、海運、鉄道の発達、政治制度の熟成、国民の意識の高さなどを、目の当たりにしたショックを物語っている。
 しかし、ドイツに行きビスマルクの演説を聴いたあたりから、大久保の堅忍不抜、 諦めない粘り腰が復活する。文明の発達した英仏独とはいえ、こうなったのはたかだか四、五十年のことではないか。遅れていたドイツが追いついたプロセスも分った。
 新しい国家像が見えてきたのである。目標と手段が鮮明にイメージされたのだと推察する。目標は、富国強兵、しかし、富国が先で、まず殖産興業。範とするのは、産業と海運はイギリス、当面の政治手法はドイツのビスマルク率いる官僚行政、究極の政治制度としては、イギリスの立憲政治。富国なって強兵を養い、西欧列強に並ぶ。要する年月はほぼ三十年。寡黙な視察、そして熟慮のうえ、国造りの確固とした目標と手段が胸中に描かれたのであった。
 この視察団参加者はいずれも同種の考えを抱いて帰ってきた。ほかに欧米を視察・留学した者たちもそうであったと思う。明治十年西南戦争勃発して、薩摩藩出身者は、新政府に従うか西郷のもとへ行くかで迷う。しかし、欧米を見てきた者は、新しい国家とはどうあるべきかを肌で感じており、大久保についた。加冶屋町では、西郷の弟の従道、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛たちである。例外は村田新八であった。村田の苦悩は、司馬遼太郎『翔ぶが如く』に描かれている。西郷が、欧米を視察していたらどうなっていただろうかと、石原慎太郎はその著作で惜しんでいる(注五)。確かに、西郷と大久保が組んで新しい国造りをやったらどうなっていただろうか。果たして組めただろうか、疑問も残る。
(2)立憲政治への展望
 明治六年、視察から帰って、将来の政治制度の根幹をどうすべきかと、木戸が六月に「憲法制定の建言書」を、大久保が十一月に「立憲政体に関する意見書」を書いた。
 この二つを読むと、たいへん感銘を受ける。ついこの前まで封建の世界にいたこの両人が、近代国家への見事な展望を持つにいたったことである。内容は、立憲政治の必要なこと、君主と国民の権利関係、君主のあり方など、表現は異なってもほぼ同じである。特に、大久保のいう天皇のあり方についての考え方は明らかに天皇機関説である。これは、伊藤博文に受け継がれて明治憲法が誕生する。大久保は、ときに「有司専制」と評されるが、大久保が持っていた将来の展望を忘れてはならないであろう。
 国の指導者たる者は、国の将来についてしっかりした国家像を持たなければいけない。これは昔も今もまた将来も不変である。

7、西郷との対決

 西郷の朝鮮使節派遣をめぐって、ついに西郷との対決を決意した。明治六年十月十四日の閣議を前に、大久保は二人の息子に遺書を残す。国の進むべき道を決めるにつき、自分の信ずることを父は行う。これは自分にしか出来得ぬことである。変が起こるやもしれぬが、その前に父の思いを知らせておく。(注六)
 池辺三山によれば「天下第一の人望を持っている大軍人を政敵として、……その結果、天下を敵とするの恐れあるも憚らず、断然として排斥して……」という表現になる。西郷も大久保も、事をなすに当たっては、当然のように常に命を賭けている。賭けるというよりも、ものともしないといった方がよい。大久保は常に、獅子は鼠一匹捕まえるのに全力を尽くすやり方である。政策の一つ一つに力が籠っている。大久保の「威」とは、風貌もさることながら、熟慮断行に気迫が備わっていたからであろう。
(司馬遼太郎『翔ぶが如く』には、このことについての鮮やかな表現がある)
 閣議は大久保の反対にも拘らず、翌日、三條実美と岩倉が西郷に屈する。この後の巻き返しは、大久保ならではの粘りと凄みがある。板ばさみとなった三條は精神錯乱となり、そこを突いて伊藤博文と薩摩人脈を駆使し宮中工作を断行。ついに閣議を逆転させる。大久保の鹿児島で人気がない理由が分るようだ。しかし、命を賭けていた大久保に悪びれるところは感じられない。
 西郷は敗れた翌日、大久保に別れの挨拶に行く。その場に居合わせたという伊藤博文から聞いた話として、西郷、大久保両人に共に近かった高島鞆之助談によれば(注七)、
「西郷は『おいは帰る、後の事はよかたのむ』と言われたそうじゃ。(大久保)公は、『おいは知らん』と素気なく言われた。そしたら翁はいつになく眼を怒らして『知らんとはなんつうこつか』と言ってそのままプイといってしまわれた」
 西郷は、考えがどんなに違っても、やはり国を背負うのは大久保しかいないと認めていたのであろう。それに対して、大久保は西郷のすべてを放りだして薩摩へ帰ってしまう癖が出たと難じている。また、おい一人にやれというのかと。
 両雄最後の別れには、一場の名場面を見る趣がある。

 このときの大久保の踏ん張りで、朝鮮との戦い、そこから予想される列強の干渉と摩擦も無事避けることができた。「小御所会議」「鳥羽伏見の戦い」と並んで、大久保利通の「三大踏ん張り」ではないだろうか。

8、殖産興業

 大久保が殖産興業に力を尽くしたことはよく知られているが、下記のことは比較的知られていない。
(1)農業への注力
 明治七年の「殖産興業に関する意見書」にある「農を基とし、工商之に応じ」という言葉の通り、大久保はまず農業に力を入れた。ふつう、殖産興業という言葉からは、工業あるいは製造業といったイメージが浮かぶ。実際は、大久保は、日本はまだまだ農業が基盤であり農業の発展に応じて商工業も伸張すると考えた。イギリスの鉱工業の隆盛を見ている大久保がである。大久保の考えが、いかに着実であったかを物語っていよう。
 明治六年に設けられた内藤新宿試験場に力を入れ、明治十一年一月には駒場農学校を設立する。ほかに三田育種場、千住製絨所(せいじゅうしょ)も作った。この駒場農学校からの卒業生たちが、各地の農業専門学校の設立に力を尽くし、日本農業の発展に貢献してきたのである。現在の東大農学部、筑波大生命資源学類・農林生物学コース・東京農工大は、その起源をたどれば、いずれも駒場農学校から誕生したものである。各県庁に、勧農の係を置いたのも大久保であった。
 さらに、農地開拓としては、猪苗代湖から水を引き、「安積(あさか)疎水」建設の発案も大久保であった。士族五百世帯をこれにあて、士族救済の一つにしようと考えた。士族を切り捨てざるを得なかった大久保の心の内が見える。しかし、原野の水田化には年月を要した。漸く大正から昭和になって成果が現れ、新潟に匹敵する郡山市周辺の大水田地帯が生まれたのであった。今でも、郡山では九月に大久保に感謝する祭りが催されているという。
(2)海運業・山林業への注力
 大久保は海運業の発達が貿易振興のために必須と考えた。これは、イギリスを見て、産業の隆盛を支えているのは、世界各地からの原材料の輸入と製品の輸出を担う船舶、海運、港湾、国内隅々に引かれている鉄道網であると、理解したからである。将来の軍隊の輸送まで視野に入れていた可能性もあるかもしれない。
 それに付随して、山林業の保護育成にも力を注いだ。船舶造船、鉄道建設、その他設備の建設には、莫大な材木が必要だからである。大久保は殖産興業の縁の下の部分にも目を配っていた。
(3)官と民との関係
 国策会社であった「日本国郵便蒸気船会社」についてのコメントが端的に大久保の考えを現している。
「官に依頼の過度なる自立独行の志操無く意に成果の美を見る能はず」(注八)
 さらに注目すべきは、政府が出過ぎる弊害を警戒していることである。民間が力不足の間は後押しが必要であるが、介入のし過ぎは害であり、あるときからは民間に任せるべきであるとの考えが出ている。
 養蚕業の発展に尽くした佐々木長淳は、こう語っている(注九)。
「(大久保公から)こういう内訓があった。蚕糸業を発達させるには大いに誘導保護奨励等の途を開かねばならぬ。しかるに、もし蚕糸業者に対して、妄りに干渉をすれば、同業者の権利を失わしめ、奸商を跋扈せしめ、国帑(ど)を徒費し、外人の謗りを招く虞れがある。奨励と干渉とはよく似ているが大変な違いだから、注意して混淆せぬようにせぬといけぬと懇々諭され……」
これは、現代にも通用する鋭い洞察の指針である。明治以来、どれだけの歴代総理がここまで目配りをしたか。この大久保を「有吏専制」の人ということは難しい。

9、行政改革

 明治十年一月、地租を三%から二・五%に軽減した。これは、農村における生活にかかる負担として、地租三%に加えて徴兵、学制制定に伴う学費負担に耐えかね、明治六、七年頃から各地で一揆が類発したことに対する対策であった。政府の歳入不足をどこで補うかについて、大久保は、地租改正と同時に行政改革を行っている。
 大久保としては、新政府の樹立以来、行政の充実こそ国造りの基礎であると自分の手で築きあげてきた。それを自ら、省庁、人員の削減を行うとは、痛恨の極みであったであろう。地租改正と行政改革を同時に行い得たということは、大久保の政治家としての決断と実行力を如実に物語っているようだ。戦後から今日まで数度にわたる行政改革の腰砕けを見てきた我々は、いくら帝国議会誕生の前とはいえ、大久保の豪腕に脱帽である。日本最初の行政改革は、もっと広く知られてよい大久保の業績である。

10、大久保の無念

 明治十一年五月十四日、紀尾井坂で倒れた朝、直前に福島県知事山吉盛典に語っている。山吉はこれを記録した。
「今や事漸く平なり……維新の盛意を貫徹せんとす……三十年を期するの素志なり……明治元年より十に至るを第一期とす兵事多くして即創業時間なり十一年より二十年に至るを第二期とす第二期中は尤肝要なる時間にして内治を整ひ民産を殖するは此時にあり利通不肖と雖も十分に内務の職を尽さん事を決心なり二十一年より三十年に至るを第三期とす三期の守成は後進賢者に継承修飾するを待つものなり」
 西南戦争が明治十年九月に終結し、大きな重荷を下ろした大久保の、よしやるぞという気概が溢れている。その直後の変であった。
 大久保の死を悼んでの大隈重信の言葉が胸に沁みる。(注十)
「かつて伊藤とおれとを呼んで、今までは吾が輩はいろいろな関係に掣肘されて、思うようなことができなかった。君らもさぞ頑迷な因循な政事家だと思ったろうが、これからは大いにやる。おれは元来進歩主義者なのじゃ。大いに君らと一緒にやろう。一つ積極的にやろうじゃないか……
 大久保が初めて愁眉を開いて、志を得た間はわずかに八ヶ月、二十年の大苦辛になんら酬いられることなく、ただ八ヶ月のみ安らかな想いをして死んだのだ」
 大隈の心からの慨嘆が、大久保の無念を代弁しているようだ。

11、大久保の真骨頂

 大久保の政治家としての真骨頂とは、何であったのだろうか。
 修羅場を共にくぐり抜けてきた岩倉具視はこう言う。「大久保は、才なく史記にも暗い。ただし、ことに臨んで不動であった」。岩倉の言う「不動」とはどういう意味か。
 一八六二年(文久二年)以来、島津久光と共に公武合体のため力を尽くす。だが、これの限界を覚り、幕府を外した公議政体構想へと向かう。さらに幕府打倒が必至と考えは移り、それも平和的手段から武力での打倒へと転換していく。大久保の政略は「不動」ではない。次々に変容している。 行動を共にする者も替わっていく。久光と決別し、朝廷を見限り、母体の士族階層を切り、先輩であり盟友の西郷とも対決した。
 そこで、「不動」とは、それを支える軸、例えば回る独楽の軸 ではないかと考えてみた。「西欧列強の歯牙に対抗し、自立した独立国家を築く」。この国家像こそが大久保の軸、決してぶれない軸だった。軸がぶれないために、判断も冴え施策も的確となる。 熟考の後、瞬時に決断し、決断するや全力をあげて実行した。 実行に当たっては、思想、主義、主張、人の情、名利を超越して命を賭けた。熟慮断行は、軸が不動なるが故にできたことである。 明治の評論家池辺三山が「大久保ほど意地の強い者はいない、大久保は失望はしても決して諦めない」と評しているのも同じことであろう。
 大久保は本来、漸進の人である。西郷隆盛、木戸孝允と異なり、理想に拘わるところが少ない。軸を不動にしてその時と状況に合わせ、「一利を興すは一害を除くに如かず」の人であった。徹底したリアリストともいえよう。大久保が、久光と京と江戸へ出てから紀尾井坂で倒れるまでの十六年間、政治の渦中にあってしかも常に先導的役割を担うことができた所以である。
 国家像が確立しているが故に、政策の優先に誤りがなく迅速かつ内容が的確であった。松本清張の言う「明治時代唯一人の大宰相」大久保利通(注十一)を、現代の政治家はいま一度勉強し直す必要があるようだ。

(注一)
佐々木克監修『大久保利通』より。本書は『報知新聞』の記者松原到遠が、生前の大久保利通と親しく交遊をもった人物に思い出を語ってもらった談話を集めたものである。
(注二)
池辺三山『明治維新三大政治家』より
(注三)
『大久保利通日記』日本史蹟協会編(明治三年三月二十九日の記述)
(注四)
佐々木克監修『大久保利通』より
(注五)
石原慎太郎『私の好きな日本人』より
(注六)
『大久保利通日記』(明治六年十月八日の記述)
(注七)
佐々木克監修『大久保利通』より
(注八)
『大久保利通文書』一〇二〇日本史蹟協会編
(注九)
佐々木克監修『大久保利通』より
(注十)
同上
(注十一)
松本清張『史観宰相論』より

平成23年9月

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