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サロン21

サロン21 討論メモ 「大久保利通の踏ん張り」

平成27年12月15日

〔1〕.当月は、大平忠さんに頭書に関するプレゼンテーションを行ってもらいました。
 大平さんは、長年にわたり大久保利通の研究をされており、配信済みの豊富な資料と各界の名士や大久保の知人、友人などからの大久保観を交えながら、その人柄・業績などについてご説明いただきました。
 若くして困窮した経験からか、粘り強く、慎重な性格で、強い近代日本を造り上げるという大志は揺るがなかったものの,切所ではこだわりを捨てて柔軟に対処し、状況判断を誤ることが皆無だった。
 近代日本の建設に多大な貢献をしたにもかかわらず、なぜか不人気で知名度も低い大久保利通の存在を多くの日本人に知らしめたいという大平さんのプレゼンテーションだった。

〔2〕.続いて出席者16名による自由な討論に入り、下記のような意見が出された。

西郷は人気で、大久保は地元の鹿児島でさえ、不人気だ。
江藤新平に対する冷たさは許せない。優秀だが、不人気で当然だ。
独立国家の建設という大目的は揺るがなかったが、多くの友人と袂を分かち、変節もしてきた。
清廉無私の立派な政治家だが、一方で、実務型で失点のない官僚の印象がある。
若い時には貧しく下積みで苦労したが、頭角を現していからは一度も挫折することがなかった。
大久保は負けない政治家だった。将棋の世界でも升田は人気で、負けない大山は不人気だった。
大久保は180CMを超える偉丈夫で髭を蓄え、威圧感があった。
元加賀藩の浪士に暗殺されたが、冷徹な政治家としては無防備だったのではないか。

戦後の新興国を見ると長期に独裁者が治めた例があるが、西郷・大久保は早く死に過ぎた。
大久保、西郷が存命だったら、日清・日露は起こったのだろうか。

大久保は傑出した英傑だったにせよ、あの時代には全国に私を捨て国を思う優秀な人材が沢山いた。
多くの志士に国家意識があった。
下層武士でも力を発揮できる土壌があった。
徳川時代の人材教育、技術、文化などの蓄えがあって近代化は可能だった。

明治政府の皇室観は水戸学の思想に基づいていたのか。
薩長は皇室を駒と見ていた。

欧米視察団は米国に高い関心を持っていたが、帰国後は何故か欧州を手本とする方向に傾いた。
伊藤博文は帰国後も米国を気にしていた。

戦争は情報戦だ。島津斉彬は情報通であり、薩長が維新の先頭に立ったのは、情報力のせいではないか。
情報戦は大事だ。人物評も異なるし、偽情報も多い。判断力が必要となる。

大久保は人の案を上手に活用したそうだが、ビル・ゲイツに似ている。自ら発明を続けたエジソンのタイプではない。

村田新八は欧米視察団にも参加した開明派なのに、なぜ、西郷について西南戦争に参加したのか。

大久保はうわべだけの欧米文化の取り入れには反対だった。

大久保は多くの殖産事業を興したが、いまだに農業が国の本であるという認識を持ち、駒場農学校の設立に尽力し、近代農業技術の礎を築いている。

〔3〕.大久保は、万国対峙を大きな目標において、そのときどきの国益の優先順位を誤ることがなかった。これは常に無私の境地で国事を考えていたからであろう。事に臨んでは命を張って断行した。
大久保は官僚制度を作り上げたが、あくまで政治家主導であり、特に「軍人輩の下に立つことを肯んぜない」政治家であった。また、官と民との関係では官の抑制に意を用いた。しかし、後世現在に至っても官高民を払拭しえないのは、官僚制度の影の部分である。
殖産興業を第一に富国強兵を目指した成果は結実した。だが、強兵の向かうところが日清、日露の戦争であったことは、果たして大久保が望んだものであったかどうかは不明である。
民主主義の今日、國の大局を見極め、世論を味方につけながらの政策具現化は実に難しい。
どうか、現代の政治家は大久保であればどうするか、思いを馳せながら国事に臨んで貰いたいものである。

以上

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