明治維新と南北戦争(黒船来航後の米国の親日政策)
2018・4・7 浅井壮一郎
黒船来航: 1852年は米の極東への関心が高まり、「日本開国プロジェクト」が動き出し、ペリーが日本へ旅立つ。日本開国プロジェクトに強い関心を持った人物が上院議員ウィリアム・スワード。「何時の日かアメリカの対アジア貿易は対ヨーロッパ貿易と同じ程度になるだろう」
日米和親条約(1854): 薪水・食糧・石炭の供給のための下田・函館の開港・片務的最恵国待遇・外交官駐在等の不平等条約。(従来の史観)(長沢和俊『世界史事項』)
米大統領国書: 「日本国王に親愛の情をしめし」「友好と通商を促す」ことであって、切実な目的は、「漂流民保護」と「薪水・食糧・石炭の供給のための開港」で決して不平等条約ではない。
日米修好通商条約(1858): 外交官の常駐・自由貿易・神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫の開港と江戸と大阪の開市・貨幣の同種同量の交換、特に片務的最恵国条項と領事裁判権が不平等条約として重大。付属章程で協定関税が採用され、関税自主権も失った。(従来の史観)
日米修好通商条約の関税率: 米国関税率20%が基準。食糧・石炭だけが5%。酒類は35%の高関税。ハリスは日本近代化を考慮し、「不平等条約」を押し付けたわけではなかった。
協定関税: 中国の天津条約では、輸入税が従量税で原価の5%。日米条約は従価税で20%。日本に圧倒的に有利。
孝明天皇の暴挙: 安政5カ国条約で決まった兵庫開港を孝明天皇は拒絶。イギリスは交換条件として関税率5%への引き下げを要求。幕府はこの提案に飛びついた。
改税約書: 兵庫開港先送りする代わりに、20%の従価税関税を5%の従量税に引き下げ。1865年5月に改税約書締結。
前年1864年の幕府の関税収入は174万両、歳入の18%。関税引き下げは日本にとって重大な損失。
南北戦争(1861年): 南北戦争は奴隷解放を目指した戦いではなかった。保護貿易で工業立国を目指す北部諸州と自由貿易で英国への綿花供給による利を求める南部諸州との戦い。
奴隷解放宣言: 1862年に宣言。以後「戦いの目的は奴隷解放」を錦の御旗に。奴隷制度を嫌う英仏の国内世論に訴え、両国の軍事介入の動きを封じることが狙い。
リンカーンの政策: 工業立国を目指し未熟なアメリカ工業を保護すべく、徹底的な高関税政策。関税収入で大陸横断鉄道等のインフラ整備。これを支えたのが国務長官スワード。
南部諸州の連邦離脱: 英国への綿花供給で利益を享受する南部諸州が連邦離脱。国務長官スワードは背後の英国を警戒。リンカーンは当初「奴隷解放」を主張せず。
スワード: 1865年のリンカーン暗殺後もスワードは次政権でも国務長官。保護貿易政策に邁進。関税率は50%を超え、1867年に太平洋横断航路が開設。アラスカを露から買収。
小野友五郎使節団(1867): 日本から武器買い付け使節団。スワードは使節を歓迎。大統領の歓迎スピーチは彼が書いた。「米国の国境は西へ西へと進み、日本へ近づき、日米両国は定期船で結ばれるまでになった」スワードは小野一行を自宅に招き昼餐会。海軍兵学校の視察も手配。新鋭鋼鉄戦艦「ストンウォール」の売却も承認。1869年:大陸横断鉄道開通。(渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』)
ペシャイン・スミス: 米国は日本近代化制度設計が出来る人物として、ペシャイン・スミスを紹介。
保護貿易・高関税により未熟産業を保護。関税収入でインフラ整備。米国を英国に対抗できる工業国にする。それがアメリカ学派、ヘンリー・カレイやペシャイン・スミスの考え方。
渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』: この頃の日本の経済・外交政策のキー・マンがペシャイン・スミス。スミスは大隈重信の『開国大勢史』に「日本外交はスミスに頼るところ大」。スミスは政治経済学にも造詣が深く、共和党の経済政策ブレーン、ヘンリー・カレイの直弟子。カレイはイギリスのアダム・スミス、デヴィッド・リカードの自由貿易論を真っ向から否定。
イギリスの経済戦略: 産業革命で世界の工場の地位を確立。さらに英国は、トップランナーの地位を維持するシステム作りに成功。自由貿易を世界に強制し、他国の工業化を妨害。
アダム・スミス: 「他国はイギリスと交易して工業製品を仕入れるべきで、工業化は不要」
リカードの比較優位説: 「世界中が英国に原料を供給し、その工業製品を輸入すれば、先進国も後進国もどちらも有利」
アメリカ学派: 彼等の説には、工業化潜在力を持つ国でも、英国の原料供給国のままに押し込めておきたいという邪悪な意思。これに対するアメリカ学派の主張は「高関税政策・インフラの整備・国法銀行の設置による金融システムの整備」であり、その根本思想は「イギリスの自由貿易主義が構築したメカニズムの中にアメリカを埋没させない」という点にあった。
産業革命と帝国主義: 産業革命はミュール紡績機等の発明による紡績工業の大幅な改善が起爆剤。この廉価良質の綿製品をもってインドに進出。インドには古来、綿製品の大産地。インドは英製品に高関税。これを武力で押さえつけ無関税を強要。これが自由主義帝国主義。
海軍増強: 砲64門以上を軍艦。1767年当時、397隻。1800年では800隻。その結果税率は25%から50%に増大。軍事大国化。
イギリスの中国進出: 英国は中国にも綿製品を輸出。だが中国農民は国産の農作業向きの丈夫な綿布を好み、英製品を拒絶。次が羊毛。だが暑い中国南部では不向き。最後がインド産アヘン。
イギリスの日本進出: 英国は綿製品を売り込む。日本には綿織手工業が既に発達。だが良質薄手の綿布は受け入れた。一方アヘンには日本商人は手を出さず、役人も腐敗していなかった。彼らの商機は武器と羊毛。
金融帝国主義: イギリスは狡猾。自由貿易主義強制だけでなく、他国に借款を押し付け、金融メカニズムを支配。借款に際し、関税を担保。これは根保証で将来の債権も担保。従って安心して融資可能。融資はイギリス系銀行が担当。要はいかに関税を担保に取り込むか。
金融詐欺事件: 新橋―横浜間の鉄道敷設資金調達のため、英公使パークスはホレーシオ・レイを明治政府に紹介。レイは清国海関長時代、不正で解雇された詐欺師で投資資金保有と虚偽の主張。彼は政府と契約後、関税を担保として公債発行。利率は年9%、日本との契約では13%。4%の利ざや稼ぎ。パークスは明治政府を騙し、僅かな起債で関税収入の担保詐取を計画。
米国のデロング駐日公使: この謀略を明治政府に通報。政府は急いで特使をロンドンに派遣、起債を中止。改めてロンドン・オリエンタル銀行に起債依頼。担保は運賃収入で十分だった。
関税: 日本は重要な財源としての関税価値を学習。英国は関税収入を担保にすればどんなプロジェクトにも融資。融資は英系銀行が実行。その典型的な成功例が清市場。関税を低く抑え、清の工業化を押さえ込んだ。その上、清国の海関のトップには英人を起用させた。融資や貨幣発行は英系香港上海銀行が支配。自由貿易帝国主義体制はアヘン戦争の際、清市場で完成。
アヘン戦争(1830~42): アヘン戦争は英国だけの問題ではない。買弁という商人が積極的に販売ルートを開拓したからだ。それに反発した林則徐が差し押さえ、焼却したアヘンの大半はジャーディン・マセソン商会の荷。マセソンの長崎での代理店がグラバー邸。(『日本史事典』)
マセソン商会: 1832年に広州に設立されたアヘン取引のための商社。
グラバー邸: マセソンの総代理店。マセソンのアヘン輸出を幕臣や商人は阻止。グラバーは武器商人と成り、薩長に新鋭ミニエー銃を斡旋。一方佐幕派には破棄されたマスケット銃を斡旋。ミニエー銃の射程は1000ヤード、マスケット銃は200ヤード。ミニエー銃装備の薩長軍に幕府大軍が敗北。
クリミア戦争: クリミア戦争は「戦争の産業化」といわれる軍事技術上の大変革。軍事革新は蒸気船と鉄道の利用という輸送の革新で始まる。クリミア戦争(1854~56)での英仏の勝利は補給面と武器の差。英仏は海上輸送、露は馬車を使用。砲銃弾消費に格段の差。ミニエー銃使用。
ミニエー・ライフル銃: 英仏軍はミニエー銃装備。ライフルは銃身内の螺旋状の溝で弾丸に回転を加え、真っ直ぐ飛ばす。問題は弾丸を螺旋の溝に食い込ませること。1849年、仏軍大尉ミニエーが弾丸背面に窪みをつけた弾丸を発明。発射時に装薬の爆発ガスの圧力で窪みのヘリの部分が外に膨らみ、銃身の内側にピッタリ張り付き、弾丸は旋条を捉えることができた。
大量生産: クリミア戦争後、ミニエー銃の大量受注。だがこの銃は精度が高く、特に弾丸の大量生産が困難だった。この難関をマサチュセッツ州スプリングフィールドの合衆国陸軍工廠がフライス盤を使って突破。このアメリカ方式より弾丸及び銃の大量生産が可能となり、これを採用した英軍工廠は1日に25万発の弾丸を製造。直ぐに民間業者も追随。彼らは70万丁のミニエー銃を製造したが、検査に合格して政府に引き取られたのは僅か2万丁。残りは海外に売却。⇒ 死の商人の時代
・ 南北戦争は産業化された戦争の最初の本格的な事例。北軍は最初攻勢に出て手痛い敗北を食らった。それは正確なライフルの前では、攻撃側に対して防御側が有利になるためだった。従って持久戦・消耗戦となり、補給路を断った方が俄然有利となる。結局、海軍力に勝る北軍に海上封鎖されて南軍は敗北した。
建艦競争; 1807年:フルトンの蒸気船が登場。民間企業が大西洋横断能力をもつ蒸気船の建造事業開始し、競争。1840年代にはスクリュー船が登場。1837年、炸薬榴弾砲装備の装甲軍艦を仏海軍が採用し各国が追随。1853年の露土戦争の黒海のシノベの海戦で、露艦隊の新榴弾が木造トルコ艦隊を壊滅。英仏は軍艦に装甲開始。⇒ この海戦から教訓を得て、英仏は軍艦に装甲ほどこし始める。この結果、重くなった軍艦を動かすには蒸気機関が必要となった。蒸気軍艦の登場。
露の地中海進出を恐れた英仏が参戦。⇒ クリミア戦争
ベッセマー製鋼法とアームストロング砲: 民間企業が発明したベッセマー製鋼法による大砲鋳造用鋼鉄の登場。銑鉄溶液に空気を吹き込み、炭素を二酸化炭素にして取り去る製鋼法。この鋼鉄を使用して、英国では後装旋条砲を開発した。これがアームストロング砲。
クルップ製鋼法とクルップ砲: プロイセンではクルップ製鋼法によるムラが無くひびの入らない鋼鉄を生産。鋳造法でクルップを製造。1870~71年の普仏戦争でその威力発揮。
・ アームストロングもクルップも国際市場で砲を売りまくった。さらに南北戦争では南北両軍に売りまくり、その後、日本や中国にも売り、彼らはそれを搭載する軍艦まで売り始めた。
帝国主義: 最新のヨーロッパ式装備の小部隊がアジアやアフリカの国家を簡単に制圧した事実は世界史上驚嘆すべき事実。アヘン戦争では英軍小部隊が、清帝国の動員可能全戦力を打倒。英国の使用戦力はインド軍の常備軍・艦隊。戦争による給与増なし。帆船で燃費不要。補給も僅か。弾薬は経年劣化で定期的に破棄。実戦消費は有益。英軍事予算は増減なし。
・ プラッシーの戦い(1757): 784人の英兵と10門の野砲、訓練された2100人のインド人部隊は5万の敵軍を潰走。
ヴィクトリア女王の時代(1837~1901年): 英国はこうした戦争を72回戦い、ほとんど零コストで膨大な領地を獲得。女王は「ボーっとしている間に大英帝国を手にいれた」。
帝国主義の限界: ヨーロッパ帝国主義の範囲には限界。モンロー主義と米軍事力は新大陸への列強の進出を阻止。日本もヨーロッパ方式の陸海軍を組織し、勢力圏をアジアの一角に確保。ロシアも中央・東アジアに確保。日米が接近し、日露が戦うのも歴史的必然。
モンロー宣言(1823): 中南米独立に対するメッテルニヒの干渉阻止のため、第五代モンロー大統領が相互の不可侵を訴え、アメリカの断固たる決意を表明。墺の干渉は未然に終わった。
日本が米国から学んだもの
不換紙幣: リンカーンも戦費調達には英金融機関に依存。だが法外な利率を提示。そこで国家の信用だけを背景に兌換性のない政府紙幣を発行する信用創造制度を創設。伊藤博文は1871年にこの銀行制度を学びに渡米。国立第一銀行が設立された。これは民間銀行だった。
教育: ペシャイン・スミスはリカードの労働力の質について考慮しない理論を疑問視。スミスは工業化・技術進歩は良質な労働力が必要と考え、「製品単位当たりの労働コストを下げるには、労働者は十分な食事をとり、良い服を着て、良い家に住み、十分な教育を受けなければならない」と主張。「良質労働力への給与は高くなるが、製品あたり労務費割合は低くなる」。
教育の日英比較: 英国には1870年代まで初等教育は普及せず、中等公教育も1907年まで存在せず。日本では明治初年には寺子屋が子供200人に一校存在。従って国民全てが教育の重要性を認識。木戸も伊藤も松下村塾で教育の重要性を認識。日本人は「工業立国のためには労働者の質を高めなければならない」というスミスの思想を理解。かくて全国隅々まで学校を建設。
日英の人口比較: 17世紀、日本人口は急速に増え、1世紀の間に2倍に。1726年:2654万、以降横ばい。停滞の原因は飢饉による人口抑制。初婚年齢;男子30歳。女子25歳。
一方イギリスは人口増加。1750年:650万人 1841年:1600万人・
飢饉対応の社会変革
天明の飢饉(1783~1787) 数年間の気候不順と大洪水が原因で、特に爆発した岩木山の津軽藩が最大の被害で死者13万人。日本全体で111万人死亡。 天保の飢饉(1833~1839) 全国で20~30万、大坂でも餓死者。大塩平八郎の乱。(田家康『異常気象が変えた人類の歴史』)
津軽藩: 百姓の逃亡を黙認。彼等が蝦夷の渡り、ニシン漁に従事。ニシン肥大増産。近畿に送られ農業革命。堆肥から魚肥農業へ転換。⇒ 重労働から農民解放。⇒ 河川敷での綿花栽培
藩財政破綻: どの藩でも大坂商人からの借財。返済や利子支払いのため飢饉でも米を大阪に回漕。⇒ 大坂に米集散・米価安定。⇒ 綿作が米作より優位 ⇒ 各地に綿織マニュファクチュア出現。
流通改革: 真岡木綿は問屋を通して売買。武州木綿(高機)は産地直売⇒ 行商・近江商人・丁吟の登場
綿花栽培: 年貢の安い河川敷で栽培。⇒ 綿売りの米買い。大阪平野の耕地の43%が綿作。
このニシン・綿作・綿織物手工業システムは他の地方、特に尾張に拡大。
濃尾平野の木綿生産 19世紀の尾張藩尾西地方は泉北地方と並ぶ綿織物の一大生産地となる。
高機の発明: 従来のイザリ機の生産能力は五日で白木綿一反。高機の生産能力は一日で五反。⇒ 尾西地方は1435台の織機を有する綿織物の大産地化:この地にトヨタの本業、自動織機が生まれ、更に浜松に飛び火して鈴木自動車が生まれたのは当然
綿織の泣き所は紡績: 織物労働者一人に供給する紡錘工人は8人。産業革命は紡糸と織布の生産能力の不均衡の解消が起爆剤。ミュール紡績機等の発明。
吉宗の国産化政策: 生糸・絹織物・朝鮮人参・甘蔗・甘藷・櫨等の国産化に成功。⇒ 江戸の経済システム変革: 各地に各種マニュファクチュア出現。⇒ 特に生糸は各地で上質な生糸が生産され、特に生糸売り込み商人によって、各地に運ばれたが、彼らが横浜開港と同時に横浜に結集。(『徳川吉宗』)
1859年: 横浜・長崎・函館で自由貿易開始。日本からの輸出の首位は生糸(50~70%)、2位が茶。各地から生糸売り込み商人が横浜に集まる。大名も生糸貿易に携わった。輸入の第1位は機会織り薄手木綿(、次が毛織物。⇒ 日本在来の厚手木綿は衰退。⇒ 日本では織りと紡ぎが分業化、「織り」に専業化し、輸入綿糸を使って在来の織物工業が勃興。
文化文政期の評価: 文化(1804~1818)文政(1818~1830)。11代将軍家斉(1773~1842)は松平定信に補佐されて、寛政の改革・緊縮財政(1787~93)。1818年、水野忠成が老中首座。緊縮政策緩和。貨幣改鋳の時代。1818年から9年間、改鋳益金は570万両。幕府財政の50%はこの益金に依存。また流通貨幣量は46%増加。その間増税なし。
天保の改革: 貨幣改鋳を天保の改革の水野忠邦も継承、天保の飢饉時の年貢減収を補填。貨幣改鋳はインフレをもたらしたが、経済を支え、経済成長。経済が貨幣供給を必要としていた。
1790年代、労働力を雇用して自作経営の「中農」が出現。後に「富農」と呼ばれる。富農は、年貢が収入額の20%以下に抑えられた結果、富農経営を継続。
雄藩の天保期の財政改革: 基本は借金の踏み倒し・殖産興業・交易であった。
長州藩の財政改革: 産物政策を大規模に展開して地域経済力を高め、高率の年貢を維持。米・紙・蝋に木綿・塩を加えた「防長五白」の育成・交易。⇒ 村田清風の改革。⇒ 「航海遠略策」⇒ 会津・江戸・大阪・越前・対馬・長崎・薩摩・琉球に広がる大交易網を展開。
薩摩藩の財政改革: 文政末年、5百万両の負債。調所広郷の改革 ⇒ 負債踏み倒しと産物交易。
中心は奄美群島の黒糖。1840年の売り上げ235万両。琉球を隠れ蓑に中国の「唐物」の密貿易、蝦夷地の「俵物」の密輸出。更に贋金つくり。薩摩藩は、洋式軍制改革の莫大な費用のために、密かに天保通宝を250万両私鋳。また生糸や綿花等を横浜や長崎で大規模に密貿易し、底辺で幕府と薩摩藩が対立していた。
明治維新前後の世界
新しい模範、プロイセン式戦争: 1840年、プロイセンは後装ライフル(ニードル・ガン)を採用。だが量産できなかった。だがアメリカ方式で大量生産に成功。だがこの新式銃もクルップ砲も、軍と議会の反対に会い、採用されなかった。
1858年、ヴィルヘルム一世は新しい装備を導入すべく予算案を提出。議会が拒否。彼はビスマルクを登用、否決された陸軍予算を執行。十分なニードル・ガンとクルップ後装砲装備の陸軍大増強を開始。一方、参謀総長にモルトケを採用、戦争指揮を全面的に参謀本部に任せた。モルトケ戦略は1840年代に開発された有線電信機と鉄道利用。⇒ 電撃作戦。その効果は1864年のデンマークとの戦いで直ぐに現れ、普軍は勝利。1866年の普墺戦争でも勝利。(『戦争の世界史』)
ナポレオン3世: 1859年、ナポレオン3世の軍は前装ライフル装備の墺軍部隊の横隊を、ナポレオン方式の縦隊突撃で突破した。仏軍はヨーロッパ最強となった。その勝利は将兵の戦意と勇敢さにあって、参謀の知的作業はいらないとする陸軍によって達成された。仏軍の損害も甚大。
この敗戦から、墺軍は仏軍の歩兵戦術と野砲をとりいれる。だが1866年のケーニヒグレーツの戦いで、普軍に縦隊突撃を敢行し、敗北。普軍は後装ライフルを装備。この銃は、腹ばいでも弾丸が装填でき、標的になりにくく。発射速度がミニエー銃の倍以上だった。(『戦争の世界史』)
普仏戦争(1870年): 普墺戦争の教訓から、仏軍はニードル・ガンを上回る性能の後装ライフル、シャスポ銃や機関銃ミトラユーズ銃まで装備。だが僅か6週間で、ナポレオン3世はセダンで包囲され、降伏。モルトケの参謀本部による補給と展開の作戦面での勝利。迅速な大量動員と兵力を敵が準備ができる前に動き出させる。それは参謀の綿密な作戦計画と鉄道の使用の成功だった。仏軍は戦術面でも負けた。仏軍戦術の基本は大ナポレオン以来の密集陣形による縦隊突撃による敵の横隊中央突破であった。一方普軍も普墺戦争から野砲の効果を学び、射程の長い野砲を有効な位置にいち早く配備した。その結果、仏軍が縦隊を組んだところを砲撃され、態勢を乱され、それを突破してもニードル・ガンの弾幕に完全に遮断され、手も足も出なくなり、敗北した。(渡部昇一『ドイツ参謀本部』)
徴兵制: 低コストでの兵員数増大は、徴兵制を基盤に戦時に予備軍で補強される軍隊と安い給与の徴兵、大量生産による武装コスト低減が必須。徴兵制はヨーロッパ以外では適用不能で、必要な行政機構・将校団・武器供給源がかけており、更に支配者に反抗しない信用できる市民が欠けていた。ただ日本においてのみ西欧式パターンの徴兵制軍隊が創設されえた。
1854年2月: クリミア戦争に英仏参戦。英仏連合艦隊がカムチャッカ半島のペトロパブロフスクの露軍基地を攻撃。二日後、英海軍スターリング提督が長崎来航。露艦隊撃破のため、軍艦の日本への寄航を要請。
私掠船: 軍艦どうしの海戦のほか、敵国商船の捕獲も重要。当時、私掠船と呼ばれ、「捕獲証書」を与えられた軽武装の商船も捕獲を行った。自国商船の保護は重負担 ⇒ 英仏、私掠船廃止宣言 クリミア戦争後のパリ会議で承認。だが露は宣言せず。英艦隊は自国商船保護のため、北方の露艦隊を撃滅しようとした。1854年: 日英協約締結:長崎と函館開港。1854年9月: プチャーチン大阪に来航。⇒ 12月: 日露和親条約締結。
・1855年春: 英仏艦隊北上、オホーツク海を露艦隊捕捉撃滅のため巡航。 同年3月のオランダの異例の「非常風説書」: クリミア戦争での様相とペトロパブロスクでの英仏退却を報じた。
クリミア戦争と維新戦争
クリミア戦争: 動員兵力:露;200万、英;25万、仏;40万、
戦病死:露;50万、英;2万、仏;10万、(オーランド・ファイジズ『クリミア戦争』)
武器:英仏;ミニエー銃・アームストロング砲 露;マスケット銃・旧式砲
下関戦争: 動員兵力:連合軍;軍艦17隻、砲188門、兵員5千.長州;奇兵隊数百。
死傷者: 双方70余名
武器: 連合軍;ミニエー銃・アームストロング砲、 長州;マスケット銃・旧式青銅砲
幕長戦争(長州征伐): 動員兵力:幕府側;15万、長州;4千(防具をつけない軽装歩兵)
武器:長州;ミニエー銃・アームストロング砲、幕府;マスケット銃・旧式青銅砲
仏墺戦争(1859): 両軍ミニエー銃。だが仏軍は縦隊突撃で墺軍の中央を突破。
縦隊突撃: 3大隊を正面100名の幅で、各大隊9列、合計27列の重陣で縦に中央突破。敗北した墺軍はこの戦術を導入。
普墺戦争(1866): 墺軍は仏歩兵戦術とライフル野砲を採用。1866年のケーニヒグレーツの戦いで、敵の普軍に縦隊突撃を敢行し、敗北。普軍は後装ライフル装備。
鳥羽・伏見の戦い: 動員兵力:幕府;15000、薩長;4500。 木戸孝允が「意外千万」というほど薩長軍の完勝。 アーネスト・サトウの会津藩士からの戦況聞き取り: 「薩摩藩兵は小競り合いが巧みで元込め銃使用」。幕府の「洋式訓練を受けた部隊は全く役立たずで逃走」
幕府は幕臣の軍役を金納とし、農町民を雇って常備兵軍を作っていたが、訓練不足で組織化されておらず、指揮系統も未完成だった。(井上勝生『開国と幕末変革』)
参考文献
- マクニール『戦争の世界史』刀水書房 2004
- 井上勝生『開国と幕末変革』講談社 2002
- 井上勝生『幕末・維新』岩波新書 2016
- 渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』草思社 2014
- オーランドー・ハイジズ『クリミア戦争』白水社
- 高埜利彦『江戸幕府と朝廷』山川書店 2001
- 渡辺京二『逝きし日の面影』平凡社 2005
- 渡部昇一『ドイツ参謀本部』中公新書 1975
- 氏家幹人『旗本御家人』洋泉社 2011
- 河合敦『早わかり・江戸時代』新日本出版社 2009
- 門松秀樹『明治維新と幕臣』
- 河合敦『早わかり・江戸時代』新日本出版社 2009
- 田家康『気候文明史』日本経済新聞社 2003
- 笠谷和比古『徳川吉宗』筑摩書房 1995
- 長沢和俊『世界史事項・用語集』聖文社1993
- 『日本史事典』岩波書店