「明治維新とクリミヤ戦争」
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- 10月は浅井壮一郎さんの長年の研究を纏められた資料に基づき19世紀の世界情勢を学びました。
特に、クリミア戦争は、歴史の巨大な転換点・分水嶺として再評価されるべきもので、その重要な視点は「輿論・ポピュリズム」と「戦争の産業化」である。クリミア戦争は史上初めてジャーナリズムと世論が招来した戦争だった。鉄道の発展と共に全国紙が出現し、世論が新聞により一般国民を巻き込む形で形成される。ポピュリズムの登場である。一方、この戦争は軍事史上、「戦争の産業化」といわれる大変革で、武器・戦術の一大改革でもあった。
幕末の日本は、意外なほど世界情勢に精通しており、また、激動する欧米の影響を強く受けていた、ことなどを中心に詳しくご説明いただいた。 - 〔2〕
- 引き続き、出席者11名から以下のような意見が出されました。
- クリミヤ戦争はエポックメイキングな戦争だった。
- 19世紀の帝国主義は、領土獲得→自由貿易・関税→金融と変質していった。
- 幕末の軍事情勢は、アヘン・武器商人だったグラバーの強い影響を受けていた。
- 南北戦争もクリミヤ戦争も、英国とロシアが対立したが、幕末の日本でも両者が対峙していた。
- ロシアの南下は現代でも恐ろしい。一方ではロシアの民衆は優しい。付き合い方が難しい。
- 薩長対幕府の軍事対立は日進月歩する欧州の銃・大砲の仕入れ合戦でもあった。
- 当時の日本人は西洋事情をよく知っていた。
- クリミヤ戦争もアヘン戦争も明治維新と同じ時期だが、日本はよく巻き込まれずに頑張った。
- 日本が植民地化されなかった理由はさまざまあろうが、先人の毅然たる精神力に負うところも大きかったのではないか。クラウゼビッツも「戦力とは武器と戦意の相乗」と云っている。
- 当時の日本の官僚は腐敗していなかったので、アヘン取引等を拒否した。
- 幕末の日本は米国と先に条約を結べたのが幸いだった。英国が先ならもっと厳しい条件を飲まされていた。
- 英国は関税を担保に取り、更には税関長のポストを握るなどして搾取するのが常道だった。
- 薩摩藩は八公二民の厳しい体制をとる一方では、多くの郷士を取り立て、40%が武士の身分だった。
- 薩摩藩は琉球からも搾取してとの話もある。
- しかし、琉球王朝の人頭税を廃止して感謝されたという話もある。
- 鍋島藩は財政難から藩士を一割に減らしていたので、幕末には戦闘力を失っていた。長州や米沢藩は、藩を縮小され石高が激減しても藩士を全く切らなかった。
- 萩では高杉晋作の人気が圧倒的に高いようだがなぜだろう。
- 開国と攘夷で争ったが、結局、両者に思想的な違いはなかったのではないか。
- 明治政府の発効した新円の担保は何だったのか。→明治新政府の信用だったのではないか。
- リンカーンも米国政府の信用で貨幣を発行している。→それがもとで、暗殺されたとの説もある。
- アヘン戦争は恐ろしい手口だ。当の英国のグラッドストーンでさえ、「私はかつてかくも不正な戦争、不名誉な戦争は知らない」と云っていた。現代も形を変えたアヘン戦争はありうるのではないか。警戒が必要だ。
- 旧式の武器をいくら磨いても、革命的な新武器には敵わない。現代の日本もよく考えてみる必要があるのではないか。
- AIの時代、キャッシュレスの時代、中央銀行もいらない時代になっているのではないか。
- 人間はその場にいると価値観が分からないものだ。百年後に分かる。